テラーノベル
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総攻撃前日の夕方、西門横の空き地は、戦支度の匂いと、どこか祭りの前みたいな落ち着かなさで満ちていた。
石畳には水が打たれ、昼の熱を吸った土埃がようやく静まっている。屋台の柱には新しい縄が渡され、その上へ、細く割った葦を編んだすだれが一枚ずつ吊られていった。風が通るたび、乾いた葉先がさらさら鳴る。
「そこ、もう少し右! 斜めだと風が逃げるよ!」
ニコリナが両手を筒にして声を飛ばす。その足元では、近所の子どもたちが背伸びをしながら縄を押さえ、年かさの娘が結び目を作っていた。
「おい、危ないから脚立は順番に使え」
レオニナの声が飛ぶ。叱る響きなのに、彼女は自分で脚立のぐらつきを押さえていた。追い払うつもりなら最初からここへ立たない。イルネリオは鍋の前からその様子を見て、口の端が勝手にほどけるのを感じた。
きっかけは昼すぎだった。
見回りの子が、空き家になった南通りの納屋から、使わなくなった葦すだれを何枚も見つけてきたのである。屋台の火前は夜でも熱がこもる。明日の明け方まで仕込みを続けるなら、風通しをよくしたほうがいい。そう言い出したのがニコリナで、そこへ子どもたちが「手伝う」と集まり、いつの間にか西門脇はちいさな共同作業場になっていた。
「戦の前なのに、呑気だと思う?」
横へ来たシャルヴァが、削りたての板を抱えたまま訊いた。
「少しだけ」
イルネリオは鍋をかき混ぜながら答えた。
「でも、こういう呑気さがないと、明日を迎える前に心が痩せます」
シャルヴァは低く笑い、抱えていた板を屋台の正面へ立てかけた。楯の余り板を削って作った仮の看板だった。まだ文字はない。
「名前、決めておけよ」
「今ですか」
「今だからだ。残るつもりの店には、先に呼び名がいる」
そう言って彼は、また工房のほうへ戻っていった。
屋台の裏では、大鍋が三つ並んでいる。
一つ目は夜番の兵へ回す香草入りの麦粥。二つ目は、明け方に槍隊へ配る塩肉と豆の煮込み。三つ目は負傷者用に味を薄くした根菜の汁だ。フロイディスは切った野菜を籠ごと抱え、減ったぶんだけ黙って補充していく。昨日まで泣きはらした名残を目元に残していたが、その代わり手つきはやけに速い。
「葦すだれがついたら、湯気の上がり方も変わる」
彼は鍋の縁へ顔を寄せ、そうつぶやいた。
「煙がまっすぐ抜ける。明日はここ、思ったより持つよ」
「ありがとう」
「礼は勝ってから」
短いやり取りのあと、彼は匙で汁をすくってイルネリオへ寄こした。塩気は控えめだが、喉へ落ちたあとじわりと温かい。走り回る補給係と負傷兵の両方へ渡すことを考えた味だった。
西の空が赤銅色へ傾くころ、最後の一枚が吊り終わった。
すだれの影が屋台の前へ細かな縞を落とし、その下へ長椅子と空樽が並べられる。昼間ならただの即席の休憩所に見えただろう。だが今夜は違った。戦支度で張りつめた町の真ん中に、ほんの少しだけ、肩から力を抜いて息をできる場所が生まれたのだ。
「どう?」
ニコリナが胸を張った。
「明日には壊れるかもしれない席だけど、今夜はちゃんと座れるよ」
「縁起でもない言い方をするな」
とグンナルが帳面を片手に眉をひそめる。
「壊れたら直して請求する。最初からそう決めておけば縁起でも何でもない」
「その請求、誰に回すつもりなの」
レオニナが呆れたように返すと、グンナルはさらりと言った。
「生き残った全員だ」
その答えに、屋台のまわりで小さな笑いが起きた。明日の話を、ちゃんと明日の話として口にできる。そのこと自体が心強かった。
仕込みが本格的に始まるころには、空は紫に沈み、見張り台の火が一つずつ灯りはじめていた。
イルネリオは豆を煮る鍋の火加減を見ながら、木鉢へ刻んだ香草を移す。そこへ、背後で布の擦れる音がした。
「後ろ、結んで」
振り向いた彼は、言葉をなくした。
補給隊の濃紺の制服の上から、レオニナが無骨な麻のエプロンを掛けていたのである。
胸元には小麦粉の白い筋、袖は肘まで折られ、片手には長い木匙。髪は高く結い直されていて、いつもの帳場より少しだけ近い場所に、鍋の熱を受ける顔があった。
「何、ぼんやりしてるの」
レオニナは背中の紐を片手でつまんだまま首だけ振り向く。
「忙しいんだから、早く」
「あ、はい」
イルネリオは慌てて後ろへ回った。麻紐を指に取る。ほどけないように結ぶだけなのに、手元がおかしくなる。細い背中の線を意識した瞬間、結び目が一度ずれた。
「珍しい。あんたでも手元、狂うのね」
「火が、近いので」
「鍋のせいにする顔じゃない」
横からニコリナの声が飛んできた。
彼女は空の椀を運びながら、にやにやと口元を押さえている。
「その顔、完全に恋人を見る顔」
「に、ニコリナ」
「違うなら鏡持ってこようか?」
イルネリオが答えに詰まると、レオニナは一瞬だけ目を見開き、それから木匙の柄でニコリナの肩を軽く押した。
「手を動かして」
「はーい」
歌い手は面白そうに笑い、逃げるように湯気の向こうへ消える。
残されたイルネリオは、紐を結び終えたあとも、指先に彼女の背中の温度が残っていて、しばらくその場から動けなかった。
レオニナは大鍋の前へ立つと、まるで最初からそこにいた人みたいな手つきで木匙を回しはじめた。
補給倉で米袋を担ぐ腕だ。汁の重さに振られない。煮え具合を見て、火前の兵へ「薪を一本抜いて」と短く指示し、次の瞬間には横の木札へ配膳順を書き足す。
無骨な麻布の上からでも、その動きに迷いがないのがわかった。
「帳場はいいんですか」
イルネリオが隣へ立つと、彼女は鍋から目を離さず答えた。
「今日の分は終わらせた。明日の朝に回せる数字と、今夜片づけるべき数字は分けたから」
「それで、こっちへ?」
「鍋が足りないもの」
その言い方があまりにも当たり前で、イルネリオは笑ってしまった。
「何です」
「いえ。あなたが帳面の向こうだけの人じゃないの、わかっていたつもりだったんですけど」
「そっちこそ。あんた、私を何だと思ってたの」
「……怖い補給隊長」
言った瞬間、脇腹へ木匙の柄が軽く当たった。
「今夜の配給、最後尾に回すわよ」
「困ります」
「じゃあ訂正して」
イルネリオは湯気越しに彼女を見る。額にうっすら汗が浮いていた。戦の前夜で、王都の撤退勧告を退け、明日の食数まで数え終えた人の顔なのに、鍋をかき回すその姿だけは不思議とやわらかく見えた。
「……頼りになる人です」
「よろしい」
そう言ってレオニナは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
しばらく二人で仕込みを続けたあと、屋台の前のざわめきがいったん遠のいた。
子どもたちは家へ返され、兵は交代で仮眠に入る。残ったのは、徹夜組と火の番だけだった。葦すだれの向こうで夜風が鳴り、鍋の蓋が小さく震える。
レオニナは木匙を止め、ふいに低い声で言った。
「明日、生き残ったら、屋台を昼も開きましょう」
イルネリオは手を止めた。
戦が終わったあと、砦がどうなるか。町に何人残るか。誰もまだ答えを持っていない。そんな中で、彼女ははっきり昼と言った。
「昼、ですか」
「ええ。夜番の兵だけじゃ足りない。南へ行くか迷ってる人も、畑を残るか悩んでる人も、昼に顔を合わせられる場所がいる」
レオニナはすだれの向こう、暗い町並みを見た。
「帳場だけじゃ、人は残らない。数字で食いつなぐ日は必要だけど、それだけじゃ明日の町の形が見えないから」
その横顔を見て、イルネリオの胸の奥で何かが静かに熱を持った。
彼女は、明日の戦いを越えた先まで見ている。怖れていないわけではないはずなのに、それでも数字の先に鍋を置こうとしている。
「そのときは」
イルネリオは言った。
「看板を、一緒に決めてください」
レオニナがこちらを向く。
「名前、まだないの?」
「シャルヴァにも言われました。残るつもりの店には、先に呼び名がいるって」
「その通りね」
彼女は少し考え、くすりと笑った。
「じゃあ明日を越えたら決めましょう。変な名前を出したら却下するけど」
「厳しい」
「帳場担当がいる店なんだから当然でしょ」
「鍋担当にも発言権はあります」
「半分だけ認める」
そんなやり取りができることが、信じられなかった。
北の谷には鬼が集まりつつある。見張り台から届く合図は一つ増えるたび、胸の底を冷やした。それでも今この瞬間、葦すだれの影の下で交わされた未来形の会話は、明日の勝敗と同じくらい確かな重みを持っていた。
夜半が近づくころ、ニコリナが戻ってきて、両腕を組んだまま二人を見比べた。
「ねえ、私、歌で呼び込みする役だけどさ」
「そうだな」
「今の二人見てると、看板なくても客来る気がする」
「変なこと言わないで」
レオニナが木匙を持ち上げると、ニコリナは笑いながら頭をかばった。
「だって本当だもの。明日のための仕込み場なのに、顔つきだけは夏祭りの約束した人たちなんだよ」
その言葉に、イルネリオは熱くなった耳を隠すように鍋へ向き直った。
だが隣では、レオニナも匙を混ぜる速度をわずかに乱していた。
やがて北の見張り台から、短い鐘が一つだけ鳴った。
敵影ではない。夜警の交代を告げる合図だ。それでも、全員の背がわずかに伸びる。
イルネリオは鍋の蓋を閉じ、すだれの隙間から夜空を見た。夏至前夜の星は薄く、北の谷のほうだけが黒く沈んでいる。
明日は来る。
血の匂いも、火の粉も、叫び声も、たぶん避けられない。
それでも彼は、今夜の風の通り道を覚えていた。葦すだれの鳴る音も、麻のエプロンの結び目も、湯気の向こうで交わした昼の約束も。
それらはどれも、勝ったあとにしか持ち帰れないものだ。
だからこそ、守る理由として十分だった。
イルネリオはもう一度だけ、隣に立つレオニナを見た。
濃紺の制服の上に無骨な麻布、木匙を握る指、戦の前でも鍋を止めない横顔。
その姿を胸へ刻みながら、彼は明日の朝に出す最初の一杯のことを考えた。
生き残ったら昼も開く。
看板を一緒に決める。
その約束があるかぎり、夜はまだ終わらない。
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