テラーノベル
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……亜紀、……亜紀。
耳元に降りてくる優しい声に、私は瞼を開いた。
寝ぼけ眼に映るのは、スーツ姿の彼。
「あ……そうか、今夜は帰るんだね」
口元に小さな笑みを浮かべ、気怠い身体をゆっくりと起こす。
「ああ、出張で月曜から帰ってないからな。それに、荷物も会社に置いたままだ。会社に寄ってから帰宅するよ」
「……うん」
「亜紀もシャワー浴びて早く服着ないと。そんな格好のままじゃ風邪ひくぞ」
身体を起こしただけで、そのまま動こうとしない私を見て、彼がクスッと笑う。
「へ? ……あっ」
そうだった!
彼の腕の中で意識を失うように眠りに落ちた私は、未だ一糸まとわぬ姿のままだ。
「……はは、道理でスースーすると思った」
慌てて布団を引っ張り上げて胸を隠し、照れ笑いを浮かべた。
「じゃあ、行くから」
彼は私の頭を撫でながら唇を寄せると、『チュッ』と軽いリップ音を奏でる。
「あ、待って。そこまで見送る!」
唇が離れていくのが寂しくて、感情に急かされるまま声を上げる。
「見送るって……その格好で?」
髪は乱れ、化粧も剥げて。あられもない姿の私を見つめ、彼がククッと喉を鳴らす。
「えっ……と、……そこの扉まで」
布団で肌を隠しながら立ち上がり、椅子に掛けておいたジャケットを素肌に羽織る。
「気をつけて帰ってね。居眠り運転しないように」
彼のスーツの上着を差し出し、名残惜しさを胸に押し込んで微笑みを見せる。
「大丈夫。さっきの亜紀のエッチな顔と声を思い出しながら運転してたら、眠気なんて襲ってこないから」
「もうっ、すぐそういうこと言うんだから。
そんなの思い出してにやけてたら、判断力が鈍って事故に遭っちゃうよっ」
プクッと頬を膨らませ、上目遣いで彼を見る。
「今から嫌でも現実に引き戻される。それまでは、幸せな余韻に浸っていたいんだ。いいだろ?」
彼は私から上着を受け取ると、目尻に柔らかなしわを刻む。
嫌でも現実に引き戻される……
今泉さんがこの扉を開けてしまえば、私はまたここで一人ぼっち。
彼を見送るこの瞬間がいつも寂しくて、心に暗い影が落ちる。
「……亜紀?」
「ギュッて、して」
彼の背中に腕を回し、胸に頬を寄せて目を閉じる。
私の身体を包み込む、彼の両腕。
今泉さん……好き。大好き。
けれど、この手を離したら魔法が解けてしまう。
伝わる彼の体温が嬉しくて、愛しくて、閉じた瞼が熱くなる。
「一人で大丈夫か?」
「……うん」
「明日も連絡する」
「うん……」
彼にしがみついたまま、コクンと小さく頷く。
「今泉さん……」
「ん?」
「もう一度、キスして」
顎を上げ、彼からの口づけをねだる。
彼は再び私の身体を引き寄せ、熱の中に浮かぶような柔らかなキスを何度も重ねる。
「早く服を着ないと、本当に風邪ひいちゃうぞ」
最後に額へ優しいキスを落とした彼は、私の頭をポンポンと軽く撫でた。
「うん、そうだね。出張で疲れてるのに、会いに来てくれてありがとう」
「俺が亜紀に会いたくて来たんだ。お礼なんて言わなくていいよ」
彼はフッと笑って、目尻を下げる。
「おやすみ、亜紀」
「おやすみなさい。また、明日ね」
彼の姿が扉の向こうに消えていくのを見つめ、遠ざかる足音に耳を傾ける。
足音が消え、部屋には彼の気配だけが残された。
「……今泉さん」
彼の名を呼ぶと、言い表せない寂しさが心に覆い被さってきた。
「そうだ。シャワー浴びないと……」
ため息交じりに呟き、私はジャケットを脱ぎ捨ててシャワールームに向かった。
シャワーを浴びてパジャマに着替えた私は、ベッドに腰掛けて携帯に手を伸ばす。
手にしたスマホに視線を落とすと、画面の左上にあるランプが赤く点滅している。
電話の着信? それと、留守番電話……
今泉さん?
それとも、遼?
「……」
恐る恐る右手の人差し指を置き、画面をスライドさせた。
着信履歴に名前が表示される。
えっ!?
その名前を凝視し、驚きのあまり息を飲む。
「……楓ちゃん」
目に映るその名を口にした瞬間、背筋に氷を当てられたように身震いした。
なぜ、楓ちゃんが私に電話を?
携帯に映し出された彼女の名前を見つめていると、激しい恐怖心が胸の奥で蠕動する。
私は込み上げる唾液を飲み込み、留守番電話の再生ボタンを押して携帯を耳に当てた。
『新しいメッセージを再生します――』
ガイダンスが聞こえた、その直後だった――
『……もしもし。浅倉です。亜紀先生、こんばんは。こんな時間にごめんなさい』
女を丸出しにした甘ったるい声が、耳の奥へと流れ込んできた。
彼女の声を聞くたびに嫌でも思い出されるのは、雪の夜にオペ室で聞いた、欲情に狂ったあの淫らな声色。
顔をしかめながら次の言葉を待つ。
『亜紀先生に大切なお話があります。今夜、何時になってもいいのでこの番号に連絡をください。亜紀先生にとって、とても重要な話ですよ。では、また後ほど……』
プツリと途切れた音声。
――私にとって、とても重要な話?
「……」
メッセージの終了を告げる乾いたガイダンスが、心を乱された私の右耳から左耳へと通過していく。
遼との不倫。
そして妊娠……
「これ以上、私に何を打ち明けようというの?」
耳から離した携帯電話を凝視し、漠然とした恐れに声を震わせる。
電話に気づかなかったふりをして、無視する?
……いや、気づかないふりをしたって何の意味もない。
楓ちゃんのお腹の中には遼の子供がいる。どこに隠れても、結局はあの娘の存在が付きまとう。
「……」
気味の悪い動悸を鎮めようと深呼吸をして、躊躇する人差し指で彼女の携帯番号を押した。
耳元で鳴り続ける呼び出し音が、煽るように私の心臓の鼓動に拍車をかける。
プルルル……プルルル……ッ……
『はい。もしもし』
楓ちゃん……
「……宮坂です」
『亜紀先生、良かったぁ。無視されて着拒否にされちゃうかと思ってましたよ』
彼女は私の声を聞くなりそう言って、不自然なほど明るい笑い声を上げた。
コメント
1件
うわあ、第147話、読ませていただきました……。 今泉さんを見送る朝のやりとり、すごくリアルで切なかったです。"ギュッて、して"って亜紀さんがおねだりするところ、胸がぎゅっとなりました。もう一度キスをねだるシーンも、離れたくない気持ちがひしひしと伝わってきて…。 で、その後の楓ちゃんからの留守電ですよ!あの甘ったるい声と「大切なお話」の不気味さが、さっきまでの温かい余韻を一瞬でかき消してしまって、背筋がゾクッとしました。これ以上、亜紀さんに何を――って続きが気になりすぎます! 次回、めちゃくちゃ待ってます!
管野アリオ
1,048
瑠璃マリコ
4,205
#大人ロマンス
桃下結衣
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