コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「聞きたいと思わない。聞いたからって名乗る気はないからな」
本心だ。
母親にだって、会うつもりはなかった。
会いたければ、どうにでも探せたのに、俺はそうしなかったし、考えもしなかった。
「そ? けど、どっかでバッタリ会ったら面白いかもね」
なにがどう面白いのか。
「ま、いいや。じゃ、ね」
母親は真っ赤のマニキュアを塗った手をひらひらと振り、出て行った。
振り返ることなく。
ピシャっとドアが閉まり、ハッとした。
急いで追いかける。
「ちょっと待った!」
母親は足を止めた。が、振り向かない。
「俺、さっきの子と結婚した」
「そ。おめでと」
振り返らない。
「結婚とか家庭とか、全然興味なかったけど、椿とはずっと一緒にいたいって思った」
「ふ~……ん」
母親の声が揺れた気がした。
「恨むほどあんたのことを考えたこともなかったけど、今は感謝してる」
「……」
「俺を産んでくれてありがとう」
「…………」
なおも、振り返らない。
だから、俺も背を向けた。
「それだけ」
「同じ声の男に会ったら、父親だと思っていいよ」
「はあ?」
振り返ると、母親もこちらを向いていた。
「あと、あんたの名前、父親の名前から取った」
「……あ、そ」
「昔はすっごいいい男だったけど、今はデブでハゲかもね」
「は?」
母親は笑って、背を向けた。
コツコツとヒールを鳴らし、足早に遠ざかって行く。
笑顔だけど、泣いているように見えた。
気のせいだったかもしれない。
病室に戻ると、ベッドの傍らに椿が立っていた。
「幸子は?」
「帰った」
「そう」
「五十過ぎに見えなかったけど」
「そうね。あんなに厳しく育てたのに、全く身になっていなかったとは嘆かわしい」
「いや、見た目……」
「すっごい綺麗な女性《かた》でしたね!」
椿がテンション高めに言った。
どことなく室内の雰囲気が変わり、同時にどっと疲れが出た。
病院に着いてから三十分やそこらしか経っていないのに、ものすごく神経をすり減らした気がする。
コンコン、とドアがノックされ、部屋の主が「どうぞ」と返事をした。
入って来たのはそれこそ五十歳前後くらいの看護師で、カートを押していた。
「点滴のお時間ですが」
「お願いします」
そう言うと、看護師はゴロゴロとカートを押してベッド脇までやって来た。
「椿さん、無理を言いましたね」
「え? いえ」
「彪、ご苦労様」
「ああ……」
帰れと言いたいらしい。
なんとも分かりにくい人だ。
俺は妻の背中にそっと手を添えた。
「椿、そろそろ行こう」
「はい。お祖母様、また来ます」
「いいえ。もう来る必要はありません」
「え?」
即答でピシャリと言われ、椿が目を丸くした。
「もう、十分です」
「でも――」と、椿が俺を見る。
俺はじっと祖母さんの顔を見た。
祖母さんはじっとドアの方を見ている。
見覚えのある、横顔。
十年前に家を出た時も、同じ顔をしていた。
じっと玄関を見据えて、決して俺を見なかった。
あの時、祖母は何を思っていたのだろう。
そして、今は何を思っているのだろう。
ただ、祖母は『十分だ』と言った。
「穏やかに逝けそうか」
俺の問いに、祖母さんが首を回した。
「ええ」
無表情だった。
最後に笑ってくれるかもなんて、期待するだけ無駄だ。
だから、俺が笑った。
「じゃ、な」
『また』も『さよなら』も言わなかった。
十年前も、そうだった。
それでいい。
俺は妻の手を引き、病室を出た。
無言のまま、ずんずん歩いた。
椿も何も言わずについて来た。
車に乗り、エンジンをかけ、さあ走り出そうとした時、椿がシフトレバーを持つ俺の手に自身の手を添えた。
「彪は……愛されてたね」
「え?」
「ちゃんと、愛されてたね」
「そんなこと――」
全力で否定したいのに、言葉が続かない。
あんな育てられ方をして、愛されていたなんて思えない。思えるはずがない。
なのに、嬉しいと感じた自分がいた。
母親を見た瞬間、母親だとわかった。
父親に声が似ていると言われた。
結婚する時、母親は俺を連れて行こうとした。
俺の名前は、父親の名前から取ったものだった。
母親は父親を好きだったと言った。
祖母さんが、俺を引き取ると言った。
俺は愛されて生まれてきた。
押し付けられたのではなく、祖母さんの意思で俺を手元に置いていた。
「偉かったね、彪」
「……っ」
「恨み言、言わなかった」
「…………っ」
「お祖母様、嬉しかったろうね」
ハンドルにかけた手で、くしゃりと前髪を掴んだ。
そのまま、ハンドルにもたれ掛かるように顔を伏せた。
見られたくなかった。
格好悪い自分を、見られたくなかった。
歯を食いしばり、ゆっくり深呼吸をする。
そっと頭に重みを感じた。
「彪は、すごいね」
妻の細い指が俺の髪を撫でる。
ゆっくりと、優しく、何度も。
初めてだった。
人に、こんな風に頭を撫でられたのは。
テストでどんなにいい点数を取っても、生徒会に入って頑張っても、褒めてもらったことなどない。
頑張ったねと頭を撫でられたことも、偉かったねと抱き締められたことも。
だから、だ。
初めての経験で戸惑っているだけだ。
そうでなければ、頭を撫でられたくらいで泣いたりしない。
男のくせに、そんなことで泣いたりしない。
好きな女の前で、泣いたりしない。
「くそ――っ」
止まらない涙に悪態をついたところで、どうなることもない。
俺はじっと目を閉じ、深呼吸をして、顔を上げた。
ずずっと鼻をすすり、手の甲で涙を拭う。
「格好わる」
「全然! 彪は格好いいです」
椿の真剣な表情に、初めて言葉を交わした夜を思い出した。
真剣に手を合わせ、三つの願いを口にした椿を。
『是枝部長のように仕事に邁進できますように!』
『是枝部長のように大成できますように!!』
『是枝部長のような男性とご縁がありますように!!!』
「椿の三つの願い、叶ったな」
「え?」
「仕事に邁進して、大成して、俺と縁を繋いだ」
思い出したのか、彼女がふふっと笑った。
ホント、もう、堪らない。
俺は身を乗り出し、椿の後頭部をしっかり掴んで引き寄せた。
互いのシートベルトのロックがかかる。
それでも、首を伸ばして、唇を重ねた。
さすがに誰に見られているかわからない車内では、触れ合わせるだけにとどまった。
唇こそ離したが、離れがたくて、おでこ同士をくっつけて見つめ合う。
「あの時から、惚れてたんだな」
「え?」
「あの夜から、椿を好きになった」
「嘘……」
「椿が拝んだ相手が俺で、良かった」
椿がふふっと笑う。
「あの夜、チョコレート付きの社外秘資料を見つけられて、良かった」
悔しいが、基山に感謝だなと思った。