テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#海辺の町
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
赤いリボンの結び方の話は、その日のうちに老住職の耳にも入った。住職は本堂の縁側で干した手ぬぐいを取り込みながら、「ああ」と小さく声を漏らす。
「それ、昔いた人の癖かもしれんな」
「昔いた人?」
啓介が聞く。
「離れをよく見ていた世話係の女性だよ。子どもの髪を結ぶのがうまかった」
住職はゆっくり腰を下ろす。
「ほどけにくいから、泣いても走っても大丈夫だって、よく言ってた」
芽生がすぐ手帳を開く。
「その人の名前は」
「たしか……」
住職が記憶を探る間、啓介の胸の奥で何かが先にざわめいた。聞いたことがあるような、ないような名前が、まだ出てもいないのに近づいてくる。
「離れで面倒を見ていたのは、何人かいたが、その結び方をよく使ってたのは一人だ」
住職は海のほうを見たまま言う。
「よく笑う人でな。泣いてる子の前でも、まず手を動かしていた」
啓介の喉が乾く。
「名前は」
もう一度聞く声が、自分でも少し強いと分かった。
住職はそこで、ようやく啓介を見た。
「お前の母さんだよ」
風が止まった気がした。
啓介はすぐに言葉を返せない。母の顔は思い出せる。笑い方も、台所の音も、手の匂いも。けれど“離れで子どもの髪を結んでいた人”としての母は、今まで一度も具体的に想像したことがなかった。
「母さんが……?」
「お前が小さい頃は、もう無理をさせられなくなってたが、その前はな」
住職は静かに続ける。
「誰かが泣いて来たら、まずお茶を入れて、髪や襟元を整えて、それから話を聞いていた」
芽生は手帳を持つ手を少し下ろした。鼓夏も何も言わない。
啓介は、離れの押し入れで見た気がしていた赤を思い出そうとした。あれは、誰か知らない女の子の持ち物じゃなく、母の手の仕事の跡だったのかもしれない。
住職が、やわらかく言う。
「知らなかったか」
「……うん」
啓介はようやくそれだけ返した。
知らなかった。
母が自分以外の誰かにも手を伸ばしていたことを、知らなかった。
縁側の向こうで、海が鈍く光る。
赤いリボンの結び方は、持ち主だけでなく、離れで誰が何をしていたかまで、静かに連れ戻してきた。
啓介の中で、母の記憶が、少し違う形で結び直され始めていた。