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#海辺の町
翌朝、啓介は離れの縁側に一人で座っていた。空はよく晴れているのに、胸の中だけ昨夜から潮が引ききらない。母が離れで誰かの髪を結び、湯のみを差し出していたと聞かされても、うまく飲み込みきれなかった。
「朝から遠い顔」
鼓夏が湯気の立つお茶を持ってきた。
「遠い?」
「ここにいるけど、頭は別の年にいる顔」
啓介は苦笑して湯のみを受け取る。
「昨日、住職に聞いて」
「うん」
「母さん、離れでいろんな子の世話してたらしい」
鼓夏は驚いた顔をせず、ただ静かに頷いた。
「そういう人だったんだろうね」
「俺、知らなかった」
自分で言ってから、声がひどく子どもっぽく聞こえた。
その時、住職が帳場の奥から小さな木箱を持ってきた。
「これも見ていきなさい」
中には、擦り減った櫛と、小さな手鏡と、折り癖のついた便箋が一枚入っていた。啓介がそっと開くと、丸みのある見慣れた字があらわれる。
『泣いた子の前では、まず手を動かす。言葉はそのあとで間に合う』
啓介は息を止めた。
母の筆跡だった。急いで書いたのか、最後の文字だけ少し右へ流れている。
「……声みたいだ」
ぽつりとこぼすと、鼓夏が笑った。
「文字って、案外そういうものだよ」
啓介は便箋を見つめたまま、何も返せなかった。台所の背中ばかり思い出していた母が、離れでは別の誰かの前に腰を落としていたのだと思う。泣く子の視線まで下がって、手を先に動かしていたのだと思う。
その時、縁側の端に立っていた芽生が小さく言った。
「人だけじゃなくて、やっていたことまで残ってる場所なんですね」
啓介が顔を上げると、芽生の目も少し赤かった。
母の声はもう聞けないはずなのに、潮の匂いの混じる離れの空気の中には、まだどこかその続きを含んでいる気がした。