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#読み切り
紫道
立秋 芽々(りしゅう めめ)
第10話 冷たい日
朝の畑は、
ひどく静かだった。
静かすぎて、
最初は風の向きが変わったのかと思った。
いつもなら、
葉がこすれる。
土の上で小さな虫が動く。
井戸のつるべが鳴る前から、
畑は目を覚ました音を少しずつ出している。
その朝は、
起きる前に誰かへ口をふさがれたみたいに、
音が足りなかった。
ミュオは戸口を出て、
一歩で止まった。
灰色の羽毛へ、
まだ浅い朝のひかりが落ちる。
首もとの紫が細く震えた。
畑の畝が崩れていた。
端ではない。
風で少し削れるような崩れ方でもない。
まんなかから、
踏まれている。
育ちかけた葉が、
途中で折れている。
やわらかな茎が、
土へ押しつけられたまま曲がっている。
昨日まで水を持っていた土が、
乱暴な足跡で深くえぐられている。
欠片の混じった畝も、
逃れていなかった。
あそこは、おばあちゃんが毎日いちばん長く見ていた場所だ。
葉の色を見て、
土のしまりを見て、
水の入り方を見て、
少しずつ育ててきた場所だ。
そこへ、
重たい靴の跡がいくつも残っていた。
おばあちゃんがミュオの横へ来る。
小柄な体が、
そのまま固まる。
手の甲に浮く筋が、
少しだけ強く見えた。
何も言わない。
言わないまま、
畝へ近づく。
茶色のもんぺの膝が土につく。
曲がった葉を起こそうとして、
途中で手を止める。
折れたものは、
起こしても戻らない。
ミュオは、
胸の奥が急に熱くなるのを感じた。
今まで知ってきた重さとはちがう。
冷たい視線に羽が沈んだことはある。
観測されて、胸が冷えた日もある。
帰還のようなものに引かれた夜もある。
でも、
今ここに来たものは、
冷えではなかった。
熱い。
それも、
畑の昼の熱みたいに広がるものではない。
細く、
強く、
胸の内側をこすって火を出す熱だった。
おばあちゃんがようやく息をつく。
「……やられたねえ」
声は小さい。
でも、
ほどけていない。
ミュオは畝へ入ろうとして、
長い脚を止めた。
踏んではいけない。
荒らされた上へ、
さらに自分の足を重ねたくなかった。
だから、
畝のきわから見た。
折れた葉。
裏返った土。
引き抜かれて途中で放り出された若い根。
まだ生きているのに、
生きる向きを変えられてしまったものたち。
ミュオの羽先が、
ふるえた。
おばあちゃんは、
崩れた畝の土を両手ですくった。
やわらかいはずの土が、
今朝は妙にかたく見える。
その時、
道の向こうで声がした。
「やっぱりな」
振り向くと、
里の者が何人か立っていた。
その先頭にいる男は、
背は高くないが胸を張って歩く男だった。
髪は短く、
頬の骨が少し出て、
口もとは話す前からかたく閉じている。
前からいた男だ。
畑の端で、
山のことを話す時だけ声が大きくなる男。
研究者が来た時も、
少し離れたところで眉をひそめていた男。
その男が、
崩れた畑を見て、
それでも顔色を変えなかった。
「こうなると思ってた」
おばあちゃんが立ち上がる。
小柄な体なのに、
今は畝よりまっすぐ立って見えた。
「おまえがやったのかい」
男は肩をすくめる。
「俺だけじゃない」
その言い方で、
朝の空気がもう一段冷えた。
ミュオの胸の熱は、
逆に強くなる。
男の後ろには、
目をそらしている者もいた。
腕を組んだまま動かない者もいた。
誰も胸を張って正しい顔をしてはいない。
それでも、
ここへ立っている。
男が言う。
「もう十分だろ」
おばあちゃんは何も返さない。
男は続ける。
「隕石が落ちてきて、
見たこともないのが住みついて、
星が増えただの、光が変わっただの」
そのたびに、
ミュオの羽毛の下へ熱がたまる。
男のことばは軽くない。
ちゃんと考えてきた重さがある。
でも、
その重さは土へ沈む重さではなく、
排除するために固めた石の重さだった。
「里が変になる前に、
線は引かなきゃならねえ」
線。
そのことばが、
畝の切れ目みたいに鋭く入る。
おばあちゃんが言う。
「畑を荒らして引く線かい」
男の目が細くなる。
「話しても分かんねえだろ」
「話してないのはそっちだよ」
男の口もとがさらにかたくなる。
「人じゃないもんを人みたいに置くからこうなる」
その瞬間だった。
ミュオの胸の熱が、
形を持った。
怒りだった。
今まで知らなかったわけではない。
でも、
こんなふうに、
ひとつのことばで一気に立ち上がる怒りは初めてだった。
羽が重くなるのではない。
逆だった。
軽くなりすぎる。
からだの輪郭が熱で浮く。
首の奥がからからになる。
目の前の景色が、
少しだけ細く見える。
ミュオは一歩前へ出た。
おばあちゃんが振り向く。
「ミュオ」
止める声ではない。
でも、
そのひと言には、
戻ってこい、に近いものがあった。
けれど、
ミュオの胸の熱はもう、
おばあちゃんの声だけではほどけなかった。
男がミュオを見て、
ほんの少しだけ顎を引く。
怖がったのではない。
でも、
自分のことばが届いたと知った顔だった。
その顔が、
さらに火をつけた。
ミュオは、
崩れた畝を見る。
折れた葉。
踏まれた土。
引き抜かれて捨てられた若い根。
そこへ、
おばあちゃんの手の温度がまだ残っている。
何日も水をやり、
草を抜き、
様子を見てきた時間が残っている。
それを、
踏んだ。
踏んで、
線だと言った。
ミュオのくちばしが開く。
五。
七。
五。
数は来た。
でも、
今までのどの句とも違う。
胸の奥から上がってくるものが、
やわらかく丸まっていない。
角を持ったまま、
速く出ようとしている。
おばあちゃんがもう一度呼ぶ。
「ミュオ」
今度は少し強い。
でも、
間に合わなかった。
ミュオは読んだ。
「ふむ あしは
つちの いかりを
しらなすぎ」
言い終わる。
その瞬間、
空が鳴った。
音ではない。
でも、
鳴ったとしか思えない揺れが、
真昼の上から落ちてきた。
雲がないのに、
空の高いところのひかりが、
一度だけ大きくゆがむ。
里の者たちが一斉に上を見る。
太陽のまわりの空気が、
水をこぼした紙みたいに波打つ。
それも、
やわらかな変化ではない。
不安定だった。
さっきまで均一だった明るさが、
細く裂ける。
畑へ落ちる影の縁が、
ぎくりと動く。
木の上の鳥が、
突然、鳴きもせず飛び立つ。
そばの家の窓が、
かたん、と鳴った。
おばあちゃんの顔が変わる。
「……だめ」
その声は、
第八話の夜よりずっと低かった。
里の男が、
道の向こうから駆けてくる。
肩の広い体。
重たい長靴。
日に焼けた首すじへ汗が急に浮いている。
「何した」
誰に向けたのか分からない声だった。
でも、
答えは空に出ていた。
空が安定していない。
増えすぎた星の夜とも違う。
緑に輝いた昼とも違う。
今の空は、
怒りに引っぱられている。
ミュオは自分でもそれが分かった。
ことばが、
土へ沈まず、
空へ荒く当たった。
その結果が、
上でほどけずに揺れている。
おばあちゃんがミュオの前へ立つ。
小柄な背。
茶色のもんぺ。
土のついた指。
その背中が、
今はひどく小さく見えるのに、
離れられない。
「もう読まないで」
短い声だった。
でも、
その短さの中にある切実さが、
怒りの熱へひとすじの水を入れた。
ミュオは息をのむ。
空はまだ揺れている。
畑の葉が、
風もないのにざわつく。
欠片の混じった畝だけが、
下から細かなひかりを返している。
排除を言い出した男が、
一歩下がった。
顔色が変わっていた。
さっきまでのかたさに、
別の色が混じる。
自分のことばの先で起きたものを、
初めて本気で見た顔だ。
でも、
ミュオの胸の怒りは、
それで消えなかった。
遅い、と思った。
いまさら、と思った。
その「いまさら」が、
また熱を呼ぶ。
里の男が叫ぶ。
「落ちつけ」
ミュオは、
その声の意味を分かるより先に、
自分の足もとを見る。
崩れた畝。
折れた葉。
土の中でまだ生きている根。
怒りは正しい気がした。
でも、
正しいだけでは、
空がこんなふうに揺れる。
そのことが、
さらにミュオを乱した。
どこへ置けばいいのか分からない熱が、
胸の中で場を失って暴れている。
おばあちゃんが、
畝の土をひとつかみして、
ミュオの手へ押しあてる。
やわらかく、
でも逃がさない押しあて方だった。
「見な」
ミュオは反射でその土を見る。
湿っている。
崩されていても、
まだ生きている。
根の匂いがある。
朝の水も少し残っている。
おばあちゃんの手の温度も残っている。
「怒るのはいい」
おばあちゃんの声は震えていない。
「でも、そのまま上へ投げたらだめだ」
そのことばは、
叱るというより、
畑の水加減を言う時みたいだった。
多すぎると根が腐る。
強すぎると葉が焼ける。
足りなければしおれる。
怒りも同じだと、
その声は言っていた。
ミュオの目から、
少しだけ細い震えが引く。
空はまだ不安定だ。
でも、
さっきよりほんのわずか、
裂け方が弱まった。
排除を言い出した男が、
何かを言いかける。
里の男が先に睨む。
「口閉じてろ」
そのひと言は短く、
土へ落ちた。
男はほんとうに黙った。
その沈黙のあいだに、
おばあちゃんは折れた葉をひとつ拾う。
もう戻らない葉だ。
でも、投げ捨てない。
手のひらへのせる。
「荒らされた」
言う。
「それは本当だ」
もうひとつ、
引き抜かれた若い根を拾う。
「ひどいことされた」
そのことばは、
怒りを否定しない。
ミュオはそれを聞いて、
胸の奥で暴れていた熱が、
少しだけ形を持ち直すのを感じた。
おばあちゃんは続ける。
「でも、壊すほうへ読んだら、
畑の側じゃなくなる」
そのひと言は、
重かった。
壊された畑の前で、
壊すほうへ読んだら、
畑の側じゃなくなる。
ミュオのくちばしが少し開く。
閉じる。
言い返せない。
なぜなら、
さっきの句のあと、
空が揺れた時、
ほんの一瞬だけ、
このままもっと乱れてしまえばいい、
という気持ちが自分の中にあったと、
気づいてしまったからだ。
それが、
いちばん重かった。
ミュオは膝を折った。
長い脚がぎこちなく畝のきわへたたまれる。
灰色の羽毛へ昼のひかりが落ちる。
首もとの紫が、
さっきよりずっと深く沈んで見える。
「……こわい」
小さな声だった。
おばあちゃんはうなずく。
「うん」
里の男は腕を組んだまま、
空を見上げている。
まだ完全には戻っていない。
でも、
これ以上は揺れないところで踏みとどまっている。
排除を言い出した男は、
もう何も言えない顔をしていた。
目をそらしたいのに、
そらしきれない顔。
ミュオは、
崩れた畝へ手を伸ばした。
土へ触れる。
荒らされていても、
土は土だった。
怒ってはいない。
ただ、
傷んでいる。
その違いが、
ミュオには刺さるほど分かった。
自分だけが、
空まで巻きこんで怒ってしまった。
それは、
畑の傷み方と同じではない。
違う傷だ。
ミュオは、
息を整えようとした。
胸の熱はまだ残っている。
でも、
おばあちゃんの手の温度が、
そこへ遅い水みたいにしみていく。
今すぐ癒えない。
それでいいのだと、
おばあちゃんの手は言っている。
しばらくして、
空のゆがみがようやく薄れた。
太陽のまわりの光が、
元の落ち方へ戻る。
畑の影も、
ぎくしゃくせずに土へ伸びる。
里の男が長く息を吐いた。
「……戻ったか」
おばあちゃんは立ち上がる。
「今日は、これ以上しゃべらないでおくれ」
誰へ向けたのか。
全員へだった。
排除を言い出した男たちは、
ひとり、またひとりと視線を落とす。
勝った顔の者は、ひとりもいなかった。
でも、
それで済むことでもない。
荒らされた畑は残る。
踏まれた跡も残る。
さっき生まれた危うい句も、
もう消えない。
おばあちゃんは、
小さな折れ葉をひとつずつ拾いはじめた。
ミュオも拾う。
里の男も、
無言で畝へ入る。
踏んだ者たちは、
しばらく動かなかった。
やがて、
ひとりが崩れた支えを起こし、
もうひとりが倒れた柵を持ち上げた。
謝らない。
まだ謝れない顔だ。
でも、
手は動いた。
その手のぎこちなさまで、
土は見ている気がした。
夕方まで、
みんなで畑を直した。
元通りにはならない。
折れたものは戻らない。
抜かれたものは植え直しても弱る。
それでも、
直すしかない。
おばあちゃんの茶色のもんぺは、
朝よりさらに土で重くなった。
ミュオの灰色の羽先にも、
細かな土がいくつもつく。
誰も大きな声を出さなかった。
ときどき、
おばあちゃんが短く言う。
「そこ、浅くね」
「水、あとで」
「それはもうだめだねえ」
その短さが、
今日は妙に胸へ残った。
短いことばは残る。
第九話で知ったばかりの重さが、
今は別の場所で働いていた。
夜、
縁側へ座るころには、
空はすっかり静かになっていた。
静かすぎて、
昼の揺れが嘘みたいだった。
でも、
ミュオの胸の中にはまだ、
さっきの句が残っている。
ふむ あしは
つちの いかりを
しらなすぎ
その句は、
正しかった部分もある。
でも、
危うかった。
怒りのまま、
空へぶつけた。
土へ沈めず、
そのまま上へ投げた。
だから、
空が不安定に揺れた。
ミュオは、
自分の羽先を見つめた。
少し震えている。
おばあちゃんが隣へ座る。
湯のみをひとつ差し出す。
「飲みな」
ミュオは受け取る。
あたたかい。
それだけのことが、
今日はひどくありがたかった。
しばらくして、
ミュオが言う。
「わるい し」
おばあちゃんは、
少し考えてから首を振った。
「悪い、だけじゃないねえ」
ミュオは顔を上げる。
おばあちゃんは、
暗い畑を見ていた。
「危ういんだよ」
そのひと言が、
今夜の名まえになった。
危うい。
落ちそうで、
割れそうで、
このままでは別のものを巻きこみそうな句。
おばあちゃんは続ける。
「怒りがあるのは、なくならない」
「なくならなくていい」
湯のみの湯気が、
ふたりのあいだを細く上がる。
「でも、持たないまま読んだら、
ことばが先に走る」
ミュオは、
そのことばを胸の中でなぞった。
ことばが先に走る。
今日の自分は、
まさにそうだった。
畑の傷より先に、
怒りの熱を上へ投げた。
その結果が、
あの揺れた空だった。
ミュオは小さくうなずく。
「……おぼえる」
おばあちゃんが、
目じりのしわを少しだけやわらかくする。
「うん。覚えな」
夜の畑は黙っている。
でも、
その黙り方は冷たくない。
踏まれた跡も、
直した跡も、
今日の怒りも、
全部いまは土の下に置かれている。
ミュオは空を見る。
今夜、星は増えない。
それでよかった。
増えないことが、
今日は救いだった。
危うい詩は生まれた。
もう消えない。
でも、
それを知ったこともまた、
これからの句の根になる気がした。
ミュオは湯のみを両手で持ったまま、
小さく息を吐く。
あたたかい息が、
夜の中でほどけていく。
今夜は読まない。
読まないこともまた、
残すための選び方だと、
少しだけ分かる夜だった。
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