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しょこ@愛雅色
152
羽海汐遠
10,203
第11話 選択
朝の空は、
何も起こらない顔をしていた。
第十話の揺れが、
まるで遠い夢だったみたいに、
雲は高く、
ひかりはまっすぐで、
畑の葉にも、
家の屋根にも、
同じように落ちている。
何も変わらない。
変わらない空を見て、
ミュオは少しだけ困った。
変わらないことに、
ほっとする気持ちはある。
でも、
そのほっとしたあとに、
胸の中へ残るものがある。
読めない。
それが、
朝からずっとそこにいた。
おばあちゃんは井戸のそばで水を汲み、
茶色のもんぺの裾へ土をつけながら、
いつものように畑へ向かった。
里の男は、
崩された畝の直しを見に来て、
少しだけ土を踏み、
何も言わずに支柱を立て直して帰っていった。
そばかすの子どもも、
道の向こうから手を振った。
けれど今日は、
いつものように「読んで」とは言わなかった。
みんな、
何も起こらない空の下で、
それぞれに昨日の続きをやっている。
ミュオだけが、
続きを持てずにいた。
畝の端へしゃがむ。
灰色の羽毛へ朝のひかり。
首もとの紫は、
風を受けるたび少しだけ揺れる。
指で土へ触れる。
湿りがある。
おばあちゃんの手の温度もある。
欠片の乾いたひかりも、
まだ土の下で小さく残っている。
それなのに、
ことばの粒が集まらない。
五。
七。
五。
数だけは来る。
でも、
中へ何も乗らない。
前なら、
土へ触れれば、
どこかから小さな粒が寄ってきた。
土のした。
みずの おと。
みせるため。
みじかくて。
いまは、
数の器だけが空で置かれている。
ミュオは小さく言ってみる。
「つちの うえ
……」
それだけで終わった。
続きを探そうとしても、
胸の奥がしんとしている。
怒りが過ぎたあと、
そこだけすり減ってしまったみたいだった。
おばあちゃんが少し離れたところから見ている。
何も言わない。
でも、
見ている。
見られているのに、
観測されている感じはしない。
ただ、
そこにいるという見方だった。
ミュオは土から手を離し、
今度は空を見る。
変わらない。
空も、
何も言ってこない。
第八話の夜にあった引かれる感じも、
今は表へ出ていない。
でも、
なくなったわけではないと、
体のどこかが知っている。
山のほうを向くと、
胸の奥で、
かすかに乾いたひかりが動く。
帰還。
その名を、
ミュオはまだちゃんと持っていない。
でも、
向こう側が望んでいる向きは分かる。
上へ。
戻る。
離れる。
そして、
こっちには、
畑がある。
おばあちゃんの家がある。
縁側がある。
煮物の匂いがある。
短くて残ることばがある。
その両方があるせいで、
胸の奥の静けさは、
ただの空っぽではなくなっていた。
昼近く、
おばあちゃんが縁側で根菜の葉をそろえていた。
細い指に土が入り、
手の甲の筋がうっすら浮く。
背すじはいつも通りまっすぐだが、
今日はときどき、
手だけが止まる。
ミュオはそのそばへ座った。
しばらく、
葉の擦れる音だけがあった。
やがて、
ミュオが言う。
「かえれって
まだ ある」
おばあちゃんの手が止まる。
「うん」
否定しない。
「あるね」
その返し方が、
ミュオにはありがたかった。
無いことにされると、
自分の胸の中まで曇る。
あると認められるだけで、
少しだけ息ができる。
ミュオは続ける。
「でも
ここも ある」
おばあちゃんは葉を束ね、
ひもでゆるく結ぶ。
「うん」
また、
それだけ。
でも、
そのふたつのうん、のあいだには、
まるで同じ重さが置かれていた。
帰れっていうものもある。
ここもある。
どちらかを軽くしない。
それが、
今のミュオには必要だった。
「どっちもあると、
動けなくなるねえ」
おばあちゃんがそう言って、
ようやく少し笑う。
目じりのしわは深くなるが、
今日はいつもの明るいほどけ方ではない。
それでも、
笑ってくれたことが、
ミュオの羽先を少しだけゆるめた。
ミュオは自分の胸へ手を置く。
「し、こない」
「うん」
「からっぽ、じゃない
でも
こない」
おばあちゃんは葉の束を脇へ置く。
「詰まりすぎてるのかもねえ」
ミュオは顔を上げた。
詰まりすぎてる。
その言い方は、
空っぽとも違う。
壊れたとも違う。
畑の水路が細い草でふさがれた時みたいな言い方だった。
流れるものがあるのに、
通り道がない。
おばあちゃんは続ける。
「選ぶ前って、
そうなることあるよ」
選ぶ。
そのひと言が、
昼の板の上へ静かに落ちる。
ミュオは、
その名を避けてここまで来た気がした。
帰還か残るか。
上へ向くか、
土のそばへいるか。
それが選ぶことなのだと、
言葉にされたくなかった。
言葉にされたとたん、
どちらかを裏切るみたいになる気がしていたからだ。
でも、
おばあちゃんは言う。
選ぶ前、と。
まだ選んでいない者の言い方で。
そのやさしさに、
ミュオは少しだけ目を伏せた。
昼すぎ、
ミュオはひとりで山へ行った。
おばあちゃんは止めなかった。
「暗くなる前には戻りな」
それだけだった。
山道は、
何度も通ったせいで、
足に少しなじんでいる。
落ち葉の湿り。
木の根の出方。
石の多い曲がり角。
でも、
今日の山は少し遠かった。
歩いても歩いても、
胸の中の乾いたひかりとの距離がうまく縮まらない。
最初の落下跡へ着く。
割れた殻は、
前よりさらに静かだった。
第八話の夜みたいな脈はない。
欠片だけが、
地味に土へ混じっている。
ミュオは、
割れ目の前へしゃがんだ。
指先で殻へ触れる。
冷たい。
冷たいのに、
奥ではまだ何かが続いている。
遠い。
高い。
乾いている。
でも、
それだけではなかった。
そこへ耳をすますように触れていると、
ほんの一瞬だけ、
別の気配が混じる。
昔、
もっとたくさんのものがここにいた気配。
ひとつだけでなく、
いくつも上にあったものたちの、
遠い往来の名残みたいなもの。
ミュオは目を閉じた。
自分はどこから来たのか。
ほんとうに、
そこへ戻るべきなのか。
来た場所と、
帰る場所は、
同じとは限らないのではないか。
第八話の夜、
おばあちゃんはそう言ったわけではない。
でも、
ひとつとは限らないと、
確かに言った。
ミュオは、
山の静けさの中で、
そのひと言を何度も思い出した。
戻る先は、ひとつとは限らない。
それなら、
心がある場所を探さなければならない。
けれど、
心は見えない。
土みたいに掘れない。
星みたいに指させない。
胸へ手を当てても、
いまはただ重いだけだった。
「どこ」
小さく言う。
山は答えない。
風が木の葉を鳴らすだけだ。
ミュオは読もうとしてみた。
「やまの うえ
……」
だめだった。
ことばが、
すぐ砂みたいに崩れる。
第十話の危うい句のあとから、
ことばは前みたいに勝手には来ない。
良かったのかもしれない。
でも、
今はそれがつらい。
選べないうえに、
書けない。
自分の中で何がほんとうなのか、
それすら読めない。
夕方近くになって、
そばかすの子どもが山の下で叫んだ。
「ミュオー」
その声が、
木立のあいだをまっすぐ上がってくる。
ミュオは振り向いた。
子どもは斜面の下で、
膝へ手をつきながら息を切らしていた。
頬は赤い。
鼻先のそばかすがいつもより濃く見える。
片側だけ跳ねた髪が、
汗でさらに勝手な向きをしている。
「おばあちゃんが
帰る時間だって」
それだけ言いに来たらしい。
ミュオは少しだけ目を細める。
「うん」
子どもはその場から動かず、
しばらくミュオを見る。
そして、
ぽつりと言う。
「帰るの」
短い問いだった。
でも、
その問いは、
研究者の確認とも、
ユーチューバーの好奇心とも違う。
いなくなるのか、
という問いだった。
ミュオはすぐには答えられない。
子どもは、
答えがないことを責めなかった。
かわりに、
足もとの石を小さく蹴ってから言う。
「いなくなるなら、
先に言って」
そのことばが、
思いがけず胸へ深く入った。
いなくなるなら、先に言って。
大きなことばじゃない。
でも、
第九話で聞いた「風がいい」や「うまいな」と同じところへ落ちる。
短いのに、
残る。
子どもは続ける。
「急にいないの、やだ」
ミュオは、
その時はじめて、
自分が選ぼうとしているものが、
自分だけの向きではないと、
はっきり感じた。
帰る、
帰らない、
そのどちらにも、
ここで自分を呼んだ声がついてくる。
おばあちゃんの声。
子どもの声。
里の男のぶっきらぼうな声。
全部が、
土のにおいと一緒に残っている。
山を下りる帰り道、
ミュオはまた読もうとしてみた。
でも、
やはりだめだった。
数だけは来る。
五。
七。
五。
けれど、
選ぶ前の心は、
まだことばへならない。
家へ戻ると、
おばあちゃんが台所で鍋を混ぜていた。
煮える音。
野菜の匂い。
夕方の薄いひかり。
その全部が、
帰ってきた場所の顔をしている。
おばあちゃんは振り向き、
ミュオの見た目をひと目で確かめた。
羽先の乱れ。
目の奥の沈み。
首もとの紫の深さ。
「だめかい」
ミュオはうなずく。
「こない」
「うん」
また、
それだけ。
でも、
それだけだからこそ、
責められていないと分かる。
食事のあいだも、
ミュオはあまりしゃべらなかった。
おばあちゃんも、
無理に話題をつくらない。
味噌の匂い。
炊いた米の湯気。
葉物のやわらかな苦み。
根菜の丸い甘さ。
どれもある。
でも、
そこへ句を置こうとしても、
まだ置けない。
夜になる。
縁側へ出る。
空は静かだ。
星も、
今夜は押してこない。
ただ遠くにいる。
畑も静かだ。
欠片の混じった土も、
今日は目立って光らない。
何も変わらない空と土。
その前で、
ミュオは自分がとても小さい気がした。
星を増やしたことがあっても。
空を揺らしたことがあっても。
いま、
自分の心がどこにあるか分からないなら、
それらは全部、遠い出来事だ。
ミュオは、
縁側の板へ両手をついた。
「おばあちゃん」
「ん」
「こころ
どこにある」
その問いは、
これまででいちばん子どもっぽく聞こえたかもしれない。
でも、
ミュオにはそれしか言えなかった。
おばあちゃんはすぐには答えない。
湯のみの湯気が、
夜の中でほどける。
しばらくしてから、
自分の胸を軽く叩く。
「ここ、って言いたいとこだけどね」
少し笑う。
「それだけじゃない気もする」
ミュオは顔を上げた。
おばあちゃんは畑を見る。
「手にもある」
「足にもある」
「残したものにもある」
そのひとつひとつが、
ゆっくり置かれる。
「誰かにもらったことばの中にもある」
ミュオは、
そばかすの子どもの
「先に言って」を思い出した。
おばあちゃんは続ける。
「だから、分からなくなったらね」
縁側の板をひとつ撫でる。
「自分の中だけじゃなくて、
自分が触ったものを見ればいい」
その言い方が、
畑のやり方に似ていた。
土だけ見ない。
葉も見る。
水も見る。
昨日の風も見る。
その全部で決める。
心もそうなのかもしれなかった。
ミュオは、
夜の畑を見た。
自分が触った土。
置いたことば。
増えた星。
揺らした空。
荒らされたあと直した畝。
おばあちゃんの鍋。
子どもの声。
そのどれにも、
少しずつ自分が残っている気がした。
それでも、
まだ答えにはならない。
でも、
答えへ向かう見方は、
少しだけ分かった。
ミュオは、
ことばにならないまま、
長く息を吐く。
詩は来ない。
今夜も、
ひとつも来ない。
でも、
来ないことを、
ただの欠けとは思わなくなっていた。
探しているから、
来ない。
選ぶ前だから、
来ない。
その静けさもまた、
心のある場所へ近づく途中の音なのかもしれないと、
ミュオは夜の空を見ながら思った。
星は増えない。
畑も動かない。
それでも、
何も起きていないわけではなかった。
見えないところで、
選ぶための根が、
ゆっくり土の下をのびている気がした。
コメント
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うわ、めっちゃ良かった……。第11話、読んでて胸がぎゅーってなったよ。 ミュオが「選ぶ前」の静けさの中にいる感じ、すごく伝わってきた。特に、ことばが来なくて「五、七、五」の器だけが空っぽなところとか、「からっぽじゃない でも こない」って表現が刺さった。選ぶって、裏切ることみたいで怖いんだろうな。 そばかすの子の「急にいないの、やだ」はシンプルすぎて、逆に重かった。おばあちゃんの「触ったものを見ればいい」という優しい導きも、この世界の空気にぴったりで、心がじんわり温かくなったよ。 詩が来ないことが「欠け」じゃなくて「探してる途中の音」ってラスト、すごく好き。次、どうなるんだろう。続きが気になるわ。