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北の谷から吹く風が、昼でも冷たくなってきた。
総攻撃まであと七日。西門脇の屋台は、もう夜食を出すだけの場所ではなかった。積み上げた薪、塩の袋、干した豆、刻みかけの根菜、包帯を煮沸するための湯まで、同じ火のそばへ並べられている。兵の腹を満たしながら、負傷者用のやわらかい粥も仕込む。見張りの交代に合わせて持ち出せるよう、持ち手つきの小鍋も増えた。
イルネリオは豆を洗いながら、屋台の形が日に日に変わっていくのを感じていた。鍋の数が増えただけではない。ここで起きること全部が、戦の前の呼吸みたいに街じゅうへつながっている。
その夜は、日が沈み切る前から客より先に仕事が押し寄せた。
北壁へ運ぶ保存食の小分け。夜番用の塩焼き。診療所へ回す薄い粥。フロイディスはいつもどおり、誰に言われる前でも手を動かしていた。負傷兵の皿へは喉を通りやすいものを、眠れない者には香草を一つ減らしたものを、歯の欠けた古参兵には団子をやわらかく茹でたものをと、相手の顔を見て鍋の中身を変えていく。
だが今夜は、その手が速すぎた。
速く、正確で、だからこそ危うい。
イルネリオが呼び止めても、フロイディスは「あとで」とだけ言って別の鍋へ向かった。返事の語尾が乾いている。寝不足のときの顔ではなく、限界をごまかす顔だった。
客足が一度途切れた頃、イルネリオは根菜の籠を抱えて裏口へ回った。
そこで、かすかな息の詰まる音を聞いた。
木箱と樽の陰、洗い桶の脇にしゃがみ込んだフロイディスが、両手で口を押さえていた。肩だけが、細かく震えている。声を漏らさないようにしているのに、涙だけが指の隙間から落ちて、石床へ小さな点を作っていた。
イルネリオはすぐには近づかなかった。
声をかければ、その瞬間だけ泣きやめて、また無理に立ち上がる気がしたからだ。
「……鍋、焦げますよ」
ようやくそれだけ言うと、フロイディスは顔を上げた。目の縁が赤い。
「ごめん。すぐ戻る」
「戻らなくていいです」
イルネリオは籠をその場へ置いた。
「戻る前に、人を呼びます」
フロイディスが止めるより先に、イルネリオは表へ出た。
「全員、少しだけ台所へ来てください!」
普段なら客の前でそんな大声は出さない。だからこそ、すぐに皆の顔が向いた。
レオニナが帳面を閉じる。シャルヴァが釘袋を腰へ戻す。ニコリナは歌いかけの口を閉じ、グンナルは売掛札の束を持ったまま眉をひそめた。カリドウェンだけは「今度は何だ」と不機嫌そうだったが、来ないという選択肢は取らなかった。
裏口の様子を見た瞬間、誰も軽口を叩かなかった。
フロイディスは涙を拭いて立とうとしていたが、レオニナが先に肩へ手を置いて止めた。
「座って」
短い一言だったが、命令口調ではなかった。
フロイディスは一度だけ首を振った。
「診療所のぶんも、夜番のぶんも、まだ……」
「だから増やすんです」
イルネリオが言う。
「手を」
最初に動いたのはシャルヴァだった。
「鍋台が足りない」
それだけ言って表へ戻ると、工房から持ってきていた板と金具を広げた。西門脇の空き樽へ板を渡し、石を噛ませ、即席の鍋台を二つ増やしていく。釘を打つ音が、妙に頼もしく夜へ響く。
カリドウェンは腕を組んでその様子を見ていたが、すぐに舌打ちして薪置き場へ向かった。
「火が増えるなら薪が要るだろ。俺は力仕事しかできん」
そう言いながら、誰より先に一抱えずつ運び始める。帰ってくるたび束の太さが増えるのが、彼らしかった。
グンナルは売掛札を見下ろし、鼻から息を抜いた。
「ちっ。回収は生きてからだ」
札束をひとまとめにして腰袋へ突っ込むと、そのまま倉庫へ走る。
「豆も麦も、いま払えない連中のぶんまで出す。あとで踏み倒したら倍で取り立てるからな!」
商人らしい怒鳴り声のくせに、足取りはやけに軽かった。
ニコリナは歌う代わりに袖をまくった。
「今夜は喉より手だね」
言うなり、野菜籠の前へ座り込み、刻み台を自分のほうへ引き寄せる。いつも飾りみたいに見える細い指が、驚くほど速く葉物を刻み始めた。
レオニナはその場で視線を一巡させた。
「順番を変えるわ。先に負傷兵用の粥、次に北壁の持ち出し分、そのあと夜番。噛む力のある連中は後回しでも死なない」
「言い方」
ニコリナが笑うと、レオニナはもう次の指示を出している。
「イルネリオ、味付けはあなた。フロイディスは座ったまま量だけ見て。無理に立たない」
「でも」
「でも、じゃない」
その言い方は少しだけ強かった。だが続けて、彼女はフロイディスの前へ小椀を置いた。
「これは命令じゃない。お願い。今、倒れられるほうが困る」
フロイディスは小椀を見た。中には、さっきイルネリオがまかない用に作った、塩を抑えた豆の煮汁が入っている。湯気は細く、匂いはやさしい。
震える指で椀を持ち上げ、一口すすった途端、堰が切れたみたいにまた涙が落ちた。
「助けたい相手が多すぎるんだ」
押し殺していた声が、やっと外へ出る。
「皿の減り方を見たらわかるのに、顔色を見たら次に何が要るか見えるのに、手が二本しかない。鍋も足りないし、時間も足りない。わかってるのに、追いつかない」
その言葉を、誰も遮らなかった。
代わりに、シャルヴァが新しい鍋台へ鍋を載せる。
カリドウェンが薪をどさりと置く。
グンナルが豆袋を三つ抱えて戻る。
ニコリナが刻んだ菜を山にして差し出す。
レオニナが帳面の空白を潰す勢いで段取りを書き換える。
言葉より先に、手の数が増えていく。
イルネリオは大鍋へ木匙を入れた。
湯気の向こうで、皆の動きが一つの流れになっていく。香草を入れる鍋、団子を丸める手、包帯用の湯を替える桶、持ち出し分へ蓋をする音。誰か一人の速さではなく、隣と噛み合う速さになっていた。
胸の奥で、鬼面の紋がかすかに熱を返す。人が同じ卓を囲む記憶だけではない。同じ火の前で、泣いたあとに手が増えることも、きっとこの砦を強くする。
「味、見て」
イルネリオが差し出すと、フロイディスはようやく小さく笑った。泣いたあとの赤い目のまま、椀を受け取る。
一口飲み、少し考えてから言う。
「……北壁ぶんは、塩をあと一つまみ。冷えたら薄くなる」
「了解」
「負傷兵の粥は、豆を裏ごしして。喉で引っかからないように」
「はい」
座ったままでも、彼の目はちゃんと台所全体を見ていた。
レオニナがそれを見て、ようやく息をつく。
「それでいい」
夜半を過ぎる頃には、裏口まで沈んでいた空気はすっかり変わっていた。
鍋は四つに増え、薪は十分、持ち出し用の粥は蓋つき桶へ詰められ、北壁へ運ぶ塩焼きも並んでいる。ニコリナは前髪へ野菜くずをつけたまま笑い、カリドウェンは煤だらけの腕で団子を丸めて「槍より難しい」と唸り、グンナルは結局売掛帳を開き直して「これは戦時特別勘定だ」とぶつぶつ書きつけていた。
フロイディスは泣き顔の名残を残したまま、それでも前より深く息を吸っていた。
イルネリオは鍋の火を見つめながら思う。
泣かないことが強さではない。泣いたあと、誰かの手が自然に増えることのほうが、きっと長く崩れない。
総攻撃まで残る夜は少ない。それでも今夜の仕込み場には、明日の朝へつなぐ火が、たしかに増えていた。