コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
——遥か昔。
今から五百年程前にクエント大陸の西部にあるフェガリ王国に“ナハト”と言う名の男がいた。深い愛情を持つ可能性を多分に秘めた彼はルーナ族で初めて月の女神・ルナディアから祝福を受け、大神官となった。
美しい黒髪、黒曜石のような瞳、褐色の肌を持つ彼は黒狼に変身でき、ヒト族からは『獣人』と呼ばれる事となる種の生まれであった為、獣のような耳と豊かな尻尾を有しており、多くの民をその姿と能力とで魅了していた。だが彼は、二十歳を過ぎても『恋』と呼べるものを経験する事は無かった。
『深い愛情を持つ可能性を持つ者である』という理由で祝福を得たにもかかわらずに。
神の祝福により無尽蔵に扱える神力を駆使し、“ナハト”は国民の為にと尽力し続けた。王国の民を癒やし、繁栄に助力する日々は充実したものだったが、ある日彼は、何かに導かれるかの様に突然旅に出ると言い出した。当時、大神官の補佐として仕えていた二人のルーナ族の青年を引き連れて。
『きっとこの世界にはもっと多くの種族が居るはずだ』
その考えを胸に、“ナハト”はクエント大陸の中央部を目指した。何年にも及ぶ旅の中、精霊、妖精、魔物、数多の動物達との遭遇を経て、彼はとうとう『運命』と出逢った。
同時期に旅に出ていたヒト族の聖女・“カルム”と相見たのだ。
多彩な才能を持ち、太陽神・テラアディアから初めて祝福を受けた彼女はストロベリーブロンドの美しい髪を持ち、桜色の愛らしい瞳、白い肌は新雪の様に透き通り、凹凸のあるボディラインは女性らしく、“ナハト”は一目で恋に落ちた。彼女の為ならば命でも差し出そうと誓える程の深い愛情を、生まれて初めて胸に抱いたのだ。
彼女も何かに導かれるかの様に、同じ様に『他にも知性ある種族が居るはずだ』という理由で旅に出ていたと聞き、夫婦神である二柱の導きを感じ取った二人は一層強く惹かれ合い、瞬く間に夫婦となった。
あの六年間は、本当に幸せそのものだった。
大陸の中央部に太陽神と月の女神の双方を祀る神殿を立て、彼らはヒト族とルーナ族との親交にも努めた。互いに技術を与え合い、貿易路を開拓し、それぞれの種族は融和の道を進んでいく。
神殿の周囲には中規模の町も出来上がっていき、中継地点の一つとして発展した。その周囲では畑や酪農なども盛んになっていったので、美味しいものを好むカルムの笑顔も増え、愛に溢れた生活のおかげで二人の間には子供も出来た。別々の種族の間に初めて宿った子は双子だった。両種族は歓喜に沸き、皆が皆誕生を心待ちにしていたかの様な印象だった。
(全てが上手くいっている。なんと幸せで、順調な日々なんだ)
太陽神の神官であった五人の罪人共が巫山戯た真似をするまでは、“ナハト”はそう思っていた。そう信じていた。きっと……カルムもそうだったはずだ。
悲惨な事件は突然起きた。
“ナハト”が三十二歳になったその年。親戚の一人が祖国で結婚式を挙げる事になり、大神官である彼はその結婚式を仕切って欲しいと頼まれたのだ。だが妻であるカルムの胎には大事な子供が宿っており、臨月も近い。いくら彼女でもフェガリ王国までの旅には耐えられるとは思えない。転移魔法はまだ不完全で妊婦には適さず、彼女と出逢ってから一日として会わぬ日など無く過ごしてきた“ナハト”にとっては苦渋の選択ではあったが、彼は一人で帰国する事になった。
『早く戻って来て下さいね。愛しているわ、ナハト。二人でこの子達をお迎えしてあげましょう』
自身の大きな腹を大事そうに撫でながら、カルムが“ナハト”に言った最後の言葉だ。
親戚の者には悪いが優先度は断然妻が上だ。子供も産まれる所だし、式が終わったらすぐに帰ろうと彼は心に決め、二柱を祀る神殿を旅立った。
転移魔法を使ったおかげで帰国はすぐに済み、最初の数日間は結婚式の準備に追われた。その合間に請われれば怪我人も治療し、祖国への帰省を楽しむ余裕など全く無かったが、あと二日頑張ればカルムに逢えると思えば苦では無い。白と黒、そして青を基調として立てられている月の女神の神殿を花で飾り、進行について話し合っていたその時、訃報は突然やって来た。
『聖女カルムが神殿にて自害した』——と。
しかも悲報はそれだけじゃなかった。彼女が死を選んだ理由が『大神官・“ナハト”の浮気が原因だった』というのだ。突然の帰国は、祖国で結婚式を挙げる親戚の為にというのは建前で、浮気相手と共に帰省し、二柱を祀る神殿にはもう二度と戻らないという秘匿事項を知ったが故の自殺であったと言われたのだ。
臨月が近いタイミングでの夫の裏切りによりカルムは錯乱したと推察され、神々の像を祀る祭壇の前の階段で首を切って自害した後の姿を、彼女の側近であった五人の神官達が発見したそうだ。
直様真相を確認しようと動いたが、行動は向こうの方がどうしたって早く、早々に月の神官達は神殿から全て追い出され『裏切り者』の烙印を押された。周囲の町に住んでいたルーナ族達は全ての財産を没収された上で全員祖国への退去を命じられ、ヒト族と彼らは突如絶縁状態になってしまった。
それでも“ナハト”は過去の出来事や、無事に祖国へ帰還出来た者達から得た少ない情報から状況を推察し、事実に辿り着いた。
聖女・カルムは、彼女の側近であった太陽の神官共に殺されたのだ。
主犯は絶対に彼女の妹・リューゲであるとすぐにわかった。あの女は常日頃から隙あらば“ナハト”に付き纏い、さも彼の浮気相手であるかの如く振る舞っていたからだ。異常なまでの嫉妬心を姉に向け、執着し、いつしか姉と成り代われないかと画策している節がある事に気が付いてはいたが、まさか実姉を殺すとまでは思い至らず、最悪の結果になってしまった。
カルムは双子の妹であるリューゲを愛していた。あの女は姉の前では必死に隠してはいたものの、それでも漏れ出ている悪感情にカルムも気が付いてはいたが、『家族だから、いつかは分かり合える』と聖女らしく信じ続けていたのに、結果はこの様だ。
三人の遺体を返して欲しいと、妻と子供を弔うのは夫である私の勤めだと、何度も何度も何度も何度もヒト族に訴えたが、駄目だった。
当時は納得出来なかったが、顛末を知れば当然の返答だった。遺体なんかもう一片も残っていなかったのだからどんなに“ナハト”が喚こうが返せる筈が無い。頭部は皮を剥ぎ取られ、リューゲが黒魔術を駆使してカルムの姿に成り変わった。四肢は四人の神官共に食われ、血は下っ端の神官達が、聖女の血であるとは知らずに『聖水』として飲み尽くしてしまったのだから。
……その様子を、胎の中に居た双子の子供達は全て見聞きしていた。
大きな腹を抱えていては本来の力を発揮出来ず、まさか実妹に殺されるとは夢にも思っていなかったカルムは無抵抗だったと、“ナハト”らの子供となるはずだった魂から聞かされた時は気が狂うかと思った。
胎児では母を守れず、やり返す事だって、逃げる事だって出来やしない。抗えぬまま、ただただ母の脈動が消えていくのをじっと感じ取っていた子供達の怨みと絶望は、筆舌に尽くし難いものだったろう。
鬼畜生共からせめて遺品だけでも回収しようと、“ナハト”はルーナ族を率いて戦争を起こした。話し合いでは一向に埒が明かず、仕舞いには二代目の聖女となったリューゲとの婚姻をヒト族側から申し込まれた事に怒りを抑えきれなかったのだ。
戦いはルーナ族の圧勝だった。神の祝福を持つ“ナハト”は戦場の最前線に立ち、大神官とは思えぬ戦いっぷりをヒト族に見せ付けた。唯一彼と対等に戦えたカルムは他界しており、無二の存在となった彼は戦神と化し、戦場の全てで勝利を収めていく“ナハト”を止められる者など一人としておらず、この戦いで大陸の九割がルーナ族の支配域となった。
“五人の罪人”達が“神の愛し子”であった聖女を殺した事で太陽神・テラアディアからの加護を失い、ルーナ族だけではなく、魔物達からも敵と認識され、二対一の戦闘へと発展していったのもヒト族の敗因だったと言えよう。
十年後。
長きに渡った戦争は突如終わりを告げる。それも全て、ルーナ族の『生まれ変わり信仰』のおかげだった。彼らの大半は過去世の記憶を持ったまま生まれる。ルーナ族はルーナ族に、ならばヒト族であったカルムもまたヒト族で産まれるであろうから、その土台を全て破壊し尽くしては再会が不可能になると“ナハト”が判断したからだ。
次もまた、絶対にカルムを我妻に。
そして双子の子供達を必ず迎え入れるのだ。
その執念を優先し、“五人の聖人”としてヒト族から守られている罪人達への復讐心は一旦腹の奥に仕舞い込み、彼らはカルムの生まれ故郷であったソレイユ王国の国王と『最古参の公爵家であるセレネ家をルーナ族と唯一貿易の出来る家門とする事。そして、いつか生まれてくる聖女をセレネ公爵家に差し出すと約束するのなら、生き物の道に反しない限りは永遠に王族の血脈を守り抜いてやる』という密約を結び、表面的には撤退して行った。
一年かけてセレネ公爵家にルーナ族の者達を忍ばせ、都合良く扱える家門に仕立て上げたのち、“ナハト”はカルムの姿を描いた絵画の前で自害した。だが、彼の深い愛情が故の行為であった為、月の女神・ルナディアはこの死を悲しむどころかむしろ歓喜し、ルーナ族から加護を取り上げたりはせずに今も彼らを見守っている。