*****
みんなで集まった十日後、私と龍也は釧路へと引っ越した。
千尋は大和さんの事務所で働くことになり、さなえは育児室を作るべく張り切っていた。
麻衣と鶴本くんは同棲の場となるマンションが未だに決まらず、同棲と言わずに新居を探したらいいと思う。
龍也は溝口さんの仕事を引き継ぐべく、毎日遅くまで働いている。
新しい街に慣れるまで、失業保険を貰い終えるまでは主婦業に専念しようと思っていた私だけれど、引っ越して二週間で履歴書を購入した。
「スーパーのレジ打ちってやったことないんだけど、出来るかなぁ」
学生の頃に飲食店でバイトをしたけれど、もう十年も前。
「働きたいの?」
龍也がコロッケを半分、噛んだ。
中身は食べてのお楽しみだと言ったから、一つ一つ噛んで確認している。
「お、カレー」
「こんなに長く家にいる生活したことないから、持て余しちゃって」
「みたいだな。こんなに何種類ものコロッケを作っちゃうくらいなんだから」
次は、ベーコンとコーン。
龍也が食べているのを見ていたら、私もお腹が空いてきて、手を伸ばす。
私は三時間前に一人で夕飯を済ませていた。
「それ、なに?」
「普通の牛肉」
「半分ちょーだい」
私の食べかけと龍也のを交換する。
「スーパーのレジって、土日祝日も仕事なんじゃないの?」
「多分……」
「どうしてもやりたいならいいけど、そうじゃないなら、出来れば俺と休みが合う仕事にして欲しいなぁ」
「……だよね」
立ち上がって、冷蔵庫から麦茶のポットを取り出す。コップに注いで、一口飲む。
「ビールは?」
「ん、もういい」
私はコップを持ってテーブルに戻る。
「今までの仕事みたいなのは?」
「うーん、難しいかなぁ。何年かで辞めなきゃと思うと、余計に」
「そっか」
龍也が四つ目のコロッケを口に運ぶ。
「ん、なんだ?」
「昨日のすき焼きの残り」
「ああ! すげー。これ、旨い」
働き始めたら、こうして起きて帰りを待っていてあげられないかな。
美味しそうにコロッケを頬張る龍也を眺めながら、明日は何を作ろうかと考えた。
結局、私が働き始めたのはゴールデンウイーク明け。
スーパーのレジ打ちではなく、お弁当屋さんの調理だった。
料理の腕も磨けて、売り物の残りももらえて、一石二鳥の美味しいバイト。
おかげで、龍也は釧路に来てから三キロも太ったらしい。
札幌に帰った時に千尋に『幸せ太り?』とからかわれた。
そして、九月。
「チケット、どうした?」
今日の龍也は定時で帰って来た。
今日は酢豚とエビフライをお持ち帰りしてきた。
「飛行機、取れたよ。九時ちょうどの便。お弁当屋さんにも、月曜日はお休みもらって来た」
「ん。俺も月曜は有休付けて来た。あ、実家には?」
「電話しておいたよ。龍也のお母さんに、明日の夜泊まらせて欲しいって。うちの方は、日曜の夜に顔を出すって言っておいた」
「サンキュ」
水餃子のスープが少し濃い気がしたけれど、龍也は美味しそうに食べてくれている。
「帰りの便は月曜の十五時だけど、日曜の夜はどこに泊まるの?」
龍也から、日曜の夜の手配は自分がするからと言われていた。
「HOTEL NEW LIBBER THE・TOWER」
「ホテル? しかも、高くない?」
「うん、高い。けど、千尋のお父さんが融通利かせてくれるって」
「千尋に頼んだの?」
「いや? 千尋が手配してくれた」
「子供産んだ直後にそんな余裕があるなんて、さすが」
私と龍也は顔を見合わせて笑った。
そう。
つい四時間ほど前。
バイトを終えてお弁当屋さんを出ようとした時に、千尋から出産を報告された。すぐに龍也から『折角だから、休みを取って月曜に帰って来よう』とメッセージが届き、バイト先に月曜の休みをもらった。
夏休みに札幌に帰った時から、子供が生まれたら一番に会いに来て欲しいと言われていたから、龍也とも打ち合わせ済みだった。
生まれたのが金曜で、何かと都合も良かった。
「おめでとう、千尋」
「ありがとう」
「まだ、どっちに似てるとか、わかんねーな」と、龍也が有川さんの腕の中の赤ちゃんの顔を覗き込む。
「いや、全面的に千尋に似て欲しい」
「あ! 耳! 耳の形は有川さんに似てない?」
「マジか!? 俺、耳朶薄いからなぁ。女の子はピアスとかイヤリングする時に困んねぇ?」
「その心配、気が早くない?」
騒がしいなかでも、赤ちゃんはすやすやと眠っている。
「ね、あきら。その子、抱いて?」
何となく手を出しづらくて眺めていたら、千尋が言った。
「抱いてあげて? それで、名前を付けてあげて」
「え――?」
名前……?
「あきらに、名前を付けてもらいたい」
「なんで私が――」
「――名付け親になって」
名付け……親?
「私の子の、親になって」
「なにを――」
「――海外ではさ、後見人? ていうの? あるじゃない。あと、名付け親は実の親も同然みたいに接したりするって。それと同じ」
「同じって……」
まさかの大役に、返答を迷う。
「お願いします」と言って、有川さんが赤ちゃんを差し出した。
「すんごいキラキラネーム以外で」
「そんな……」
グイッと渡されて、咄嗟に首の後ろに腕を回す。
新生児特有の甘い香りが鼻先をくすぐる。
「可愛いな」と、龍也が赤ちゃんの頬を軽く突く。
「可愛いな……」
龍也の穏やかな声に、涙が誘われた。
結婚すると決めた時に吹っ切ったはずだけれど、こうして赤ちゃんを腕に抱いて、その子を愛おしそうに見つめる龍也を目の当たりにすると、胸が締め付けられる。
口をパクッと開けて小さな小さな欠伸をする。何の疑いもなく、不安もなく、私の腕の中で寝息を立てるこの子に呼び名を与えるのが私だなんて、いいのだろうか。
そう思う反面、私がこの子の人生に大きく関われると思うと、嬉しくもある。
私が『親』になれる……。
顔を覗き込むと、口元が柔らかく曲線を描いた。
その表情が、呼ばれるのを待っているようで、胸がいっぱいになる。
気づくと涙が溢れ、赤ちゃんを包んでいるタオルにシミを作っていた。
「『未来』と書いて『みく』」
迷いなんて、なかった。
「千尋の子供が女の子だってわかった時、自分だったらどんな名前をつけたいか、考えてたの……」
我ながら、女々しい。
絶対に呼べない名前を考えていたなんて。
「……そっか」
「有川未来か。いいね」と、有川さんが笑った。
「いいの?」
「いいよ」と、有川さんが答える。
「だって――」
「――俺と千尋がうまくまとまったの、あきらと龍也のお陰みたいなもんだし、な」
「未来」と、龍也が赤ちゃんに呼びかけた。
「未来ちゃん」
頬を伝う涙を拭えないけれど、気にならなかった。
今は、未来を抱いていたかった。
「ありがとう、千尋」
「どうして? 私の方こそ、可愛い名前をありがとう」
ふにゃ、っと未来が顔を歪ませた。
「未来……ちゃん?」
「名前、喜んでるんじゃね?」と、有川さんが未来を覗き込む。
「これで、あきらも母親だね」
とめどなく流れる私の涙が未来の頬を濡らし、私たちの娘は部屋中に響く声で泣きじゃくった。
私は慌てて未来を抱く腕を左右にゆっくりと揺らした。龍也が私の涙を拭う。
千尋と有川さんは、私たちを見て笑っていた。