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麗香に依頼され作成したMRIのレポートを片手に、廊下を足早に歩く。
「宮坂先生、お疲れさまです。今からお帰りですか?」
精密検査室が並ぶ一階の廊下へ差しかかったところで、若い放射線技師の男の子が声を掛けてきた。
「お疲れさま。帰る前に相川先生へレポートを渡したいんだけど……もう心カテ始まってる?」
私は完成したばかりのレポートを軽く掲げ、彼に笑みを返す。
「はい、ちょうど始まったところです。僕も今からカテ室へ向かいます」
「そうなんだ……それなら、このレポートを相川先生に渡してくれる? 急がないから」
私は穏やかに微笑み、彼へレポートを差し出した。
「え? 宮坂先生も一緒に行きましょうよ。旦那様の宮坂先生も、さっき到着しましたから」
彼はレポートを受け取る様子もなく、屈託のない笑顔を向ける。
「……そう。
私は遠慮しとくわ。はい、これよろしくね」
私はもう一度レポートを差し出した。
彼が目を丸くしながら受け取ったのを見届けると、そのまま踵を返して廊下を歩き出す。
腕時計は午後六時を指していた。
春の訪れを間近に控え、最近では日が長くなった。
窓の外では、西の空を覆う灰色の雲の切れ間から、夕陽の名残がほのかに橙色を滲ませている。
「今カテが始まったなら……遼の帰りは九時過ぎね」
帰り支度を終えた私は、数冊の本が入った重いバッグを肩へ掛け、窓の外を眺めながら小さく呟いた。
ゆっくりと職員出入口へ向かって歩き始めた、その時――
バッグの中から、くぐもった着信音が響く。
私は足を止め、肩に掛けたバッグの中から携帯電話を取り出した。
メールフォルダを開き、差出人の名前を見た瞬間、私は反射的に辺りを見渡した。
周囲に人気がないことを確認すると、画面を隠していた親指と人差し指をゆっくりと離す。
今泉さん……
画面に映る名前を見つめた途端、温かな息とともに笑みが零れた。
【お疲れさま。そろそろ仕事が終わる頃かな? 俺は今から柳さんの店に行く。
時間があるようなら亜紀も来ないか?一緒に満開の桜を見よう】
待ち続けていた彼からの誘い。
文字だけなのに、頬が緩み、胸の奥が一気に熱くなる。
……ん?
満開の桜?
最後の一文へ視線が止まり、思わず首を傾げた。
【満開の桜? 柳さんのお庭には、もう桜が咲いてるの?】
驚きのあまり、「お疲れさまです」と打つことさえ忘れてしまった。
【おっ。すぐ返事が来たってことは、仕事は終わったな。
残念だが、桜はまだ咲いてない。
蕾を眺めながら、亜紀と一緒にどんな桜が咲くのか想像して楽しむんだ。きっと楽しいぞー。夜桜だぞー。花見だんごを買って行く】
桜の蕾を眺めて、花見だんご?
相変わらず唐突で、脈絡がなくて……
どこまで冗談で、どこからが本気なのか分からない。
私だけに見せてくれる、彼だけの不思議な世界。
メールを見つめているだけで、自然と柔らかな笑みが零れる。
私も見ていたい……
あなたと。
春を待ちわびる花の蕾を――
でも、今夜は……
「………」
画面を見つめたまま、私はそっと唇を噛んだ。
迷いながら返信を打とうとした、その時。
私の返事を待たず、再び今泉さんからメールが届く。
【今夜は遅くまで柳さんのところで仕事してる。少しでもいい。亜紀に会いたい】
その甘い言葉が、今泉さんの優しい声となって胸の奥へ静かに染み込んでいった。
今泉さん……
私も会いたい。
少しでいい。
少しだけでいいから、あなたの顔が見たい……。
でも、今夜は家に帰らないと。
今夜、あなたに少しでも会ってしまったら――
きっと、すべてがどうでもよくなってしまう。
あなたしか見えなくなって、何もかも捨ててしまうかもしれない……。
こんな状況なのに。
……こんな状況だからこそ。
彼の甘い言葉へ、心が揺れてしまう。
胸の奥が熱を帯び、切ない鼓動が静かに響いた。
「………!?」
背後に、不意に人の気配が現れる。
私は目を見開き、身を捩るように振り返った。
「あーきーちゃん。
こんなところで秘密のメール?
駄目だよぉ。こんなふうに、誰かに覗かれちゃうかもしれないよぉ」
「……直江先生」
顔を引き攣らせ、思わず言葉を失う。
「さっきさぁ。
亜紀さんのことで麗香にぶん殴られたよ。
ここをガツーン!ってさ」
直江先生は昼間の私と同じように左頬を撫でながら、口を尖らせた。
私は慌てて携帯をバッグへ押し込み、一歩後ろへ下がる。
もしかして……
メールを見られた……?
いや、まさか……。
「普通、女がグーで男を殴るかぁ?
あいつの凶暴さ、ここ数年で確実にパワーアップしてやがる」
青ざめていく私をよそに、直江先生は相変わらずの調子で喋り続けていた。
「あなたって……どこにでも湧いて出るのね。
今日は急いでるの。さようなら」
私は彼から逃げるように背を向けた。
「え~! ちょっと待ってよ、亜紀さん。
俺は君たち夫婦のせいで痛い目に遭ったんだから。責任取ってよ」
「……責任?」
なんで私が!
振り返ることもなく、そのまま扉へ向かって歩き続ける。
「亜紀さんを裏切った旦那と小娘を、一緒に懲らしめてあげようと思ってたけど……
状況は、もっと複雑みたいだね。
困ったなぁ。復讐のシナリオを修正しなきゃ」
背中へ投げられた意味深な言葉が、私をその場へ縫い留めた。
「………」
心臓がドクンと不吉な音を立てる。
頭から引いていた血の気が、一気に全身を駆け巡った。
状況はもっと複雑って……
何を言ってるの?
私は恐怖に身を強張らせながら、ゆっくりと振り返る。
見開いた視界へ飛び込んできたのは、不敵な笑みを浮かべる男の姿だった。
「あらら。効果覿面。
そんなに怖がらなくても大丈夫だよ」
「……何が言いたいの?」
恐怖で唇が震える。
彼はなおも無邪気な笑みを浮かべたまま、ゆっくり私へ歩み寄った。
「亜紀さん。その男と別れて、僕と付き合ってよ。そうしたら黙っててあげる。亜紀さんの悪事を。
そして、旦那と小娘だけ悪者にしちゃえばいいのさ」
まるで甘い口説き文句でも囁くように、彼は私の耳元でそう告げた。
「なっ……何を言ってるのよ」
後ずさった右足が竦む。
その男と別れてって……
確かに今、そう言った。
……そんな……
まさか……
本当にメールを見られてたの!?
だけど、背後からあんな小さな文字まで読めるものなの?
顔を強張らせ、訝しげに彼を見つめる。
「俺さぁ、僅かな病変組織も見逃さないくらい、ものすご~く視力がいいんだよね。細胞分裂の世界まで見えちゃうの。誰もが認める天才外科医だからさっ」
私の固まった表情を見据え、彼は茶化すように得意気な笑みを浮かべた。
「何が細胞分裂の世界よ。馬鹿馬鹿しいっ。
勝手に言ってれば!」
……もしかして、本当に見られたのかもしれない。
心臓の鼓動がさらに速まる。
「それに、あなたへ復讐を頼んだ覚えもない。
言ったでしょ?これ以上、私に構わないで!」
早く話を切り上げなきゃ。
この男は、ぺてん師。
このまま話していたら、きっと私が墓穴を掘る。
「それじゃ……」
私は逃げるように再び背を向け、歩き出した。
「亜紀さんって電車通勤だっけ? 家まで送って行こうか?」
「結構ですっ」
「なら、駅まで乗せてってあげるよ」
「結構よ! もう、どこかへ消えて!
ついて来ないでっ!」
自動扉が開く音に、私の荒げた声が重なった。
夕暮れの肌寒い風が、頭まで上り詰めた熱を冷ますように首筋を撫でていく。
私は怪訝な表情を浮かべたまま、彼を睨みつけた。
「ありゃ~、また怒られちゃった。
分かったよ。もう亜紀さんには付きまとわない。だから僕を嫌わないで。ねっ?」
敵意を剥き出しにされた男は、情けないほど眉尻を下げ、猫なで声を出す。
嫌わないでって……
「………もう遅いけど」
低く呟き、私はぷいっと彼から目を逸らした。
「ねえねえ。最後にするから、一つだけ言ってもいい?」
「……」
……私の許可を得るつもりなんて、ないくせに。
深いため息をつきながら、ちらりと直江先生へ視線を向ける。
案の定、彼は返事を待つことなく、にやりと口元を歪めた。
「不倫は恋とは違う。愛とは、かけ離れたもの。
不倫はただの欲。安定と刺激、その両方を欲しがる人間の欲に過ぎない。
不倫の関係に、愛は存在しないよ」
脈絡もなく、まるで諭すようにそう告げると、彼は真っ直ぐ私を見つめた。
不倫の関係に、愛は存在しない……
その言葉が鋭い刃となり、私の胸へ深く突き刺さる。
次の瞬間――
今泉さんの優しい笑顔が、脳裏に浮かんだ。
コメント
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うわ、第110話……もう気持ちがぐちゃぐちゃだよ😢 今泉さんからの甘いメールと直江先生の核心突く言葉、その狭間で揺れる亜紀さんの心情がリアルで苦しい。 「不倫に愛は存在しない」って台詞が刺さりすぎて、読み終わった後も胸が重い。柏木さんの心情描写、毎回えぐいほど染みるわ。次が待ちきれないけど、亜紀さんの選択が怖くもある…