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「いきなり何よ……
どうして私にそんなことを言うの?」
「え? お気に召さなかった?
この理論を聞けば、亜紀さん自身も少しは気持ちが楽になるんじゃないかな~って思って」
「どうして私が、その言葉で楽になるの?……
言ってる意味が分からないわ」
心の動揺を悟られまいと、私は呆れたように笑ってみせる。
「亜紀さんの旦那さんの本性を代弁してあげたのに。不倫は愛情じゃない。男の欲求だってね」
「夫の本性を代弁……?」
「ああ、そうだよ。
安定という妻の存在があるからこそ、他に刺激を求める。
手に入れなくても満たされる関係なんて、所詮は遺伝子に組み込まれた動物的な性欲に過ぎないってことさ。
それで【愛されてる】と思い込んでる女は哀れだね。
不倫関係でときめいて、恋だの愛だの、【私たちは婚姻関係を超えた特別な関係】だのって胸を躍らせてる滑稽な女たちに、男の本性を教えてあげたいくらいだよ」
無情で酷薄な言葉が鼓膜を震わせ、容赦なく耳へ流れ込んでくる。
「愛されてると思い込んでる……
滑稽な女に、男の本性を説く?」
視線を地面へ落としたまま、掠れた声が零れた。
「そう。俺が教えてあげたいよ。
あなたは、その男にとって――『ただの性欲の捌け口ですよ』ってね」
私が……
今泉さんにとって、ただの性欲の捌け口?
愛されているのは思い込み……?
――それが、男の本性?
頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。
冷酷な言葉が脳裏を巡り、心を少しずつ蝕んでいく。
視界が、ゆっくりと白く霞んでいった。
「そう考えるとさぁ。楓って哀れな女でしょ?
妻の座には上がれない哀れな女だと見下していれば、怒りで我を失うこともなくなる。
――昼間みたいに」
「……えっ?」
「食堂で一悶着しちゃったんでしょ?
あんな声の響く場所じゃ駄目だよぉ。内部の誰かに聞かれたら、
【小娘に旦那を寝取られた哀れな女】
として格好の噂話になる。
哀れな女が亜紀さんになっちゃうよ」
直江先生は淡々と語り、にっこりと笑った。
友人だと思っていた小娘に、旦那を寝取られ……
その上、今泉さんに愛されていると信じて、私だけが幸せを感じていたとしたら――
「こんな哀れで、おめでたい女はいないわね……」
アスファルトへ視線を落としたまま、ぽつりと呟く。
「少しでいい。亜紀に会いたい……」
沈黙を裂くように、直江先生がそう口にした。
「え……」
その言葉に顔を上げ、私は眉を寄せる。
「さっき盗み見したメールの内容だよ。
送ったのは……僕の勘だと既婚者だな。しかも、男としてかなり成熟した男だ。
初めて会った頃の純真無垢な亜紀さんを、熟した甘い香りへ変えた男なんだから……
ケツの青いガキじゃないでしょう?」
「それは……」
「その反応。やっぱり図星か。
だったらその男も旦那と同じだね。
恋をしたい女の性質を利用して性欲を満たす、恋の詐欺師」
「な……何を言って……」
「その点、俺は違うよ。
相手が人妻だろうと、本気で愛す。
俺を縛るものは何もない。相手が望めば、いつだって会いに行ける。
俺には、安定を守るための刺激なんて必要ないから。
……ねっ? 俺の方がよっぽど誠実な人間だろ?」
私に反論する隙すら与えず、直江先生は流れるように言葉を重ねた。
そして満足げに口元を歪め、小さく笑った。
この男……
気づいていて、【私に】言ったんだわ。
不倫関係に愛は存在しないって。
妻がいる男にとって、不倫相手はただの性欲の捌け口だって。
彼が浮かべる笑みを見つめるうちに、愚弄された怒りが沸々と込み上げてくる。
「何が誠実な人間よ。
あなたは自分の欲望のためなら平気で嘘をつき、人の心を操ろうとする最低な人間じゃない!」
「自分の欲望のため? ……それは違うよ。
俺はいつだって真実へ導いてあげてるだけさ。
今でも本当に思ってるの? 昨夜の出来事を知らなかったほうが良かったって。
騙され続けていたほうが良かったって」
「そ、それは……」
「ほらね。
人は弱いから、真実から逃げたくなる。
真実を目の当たりにすれば、『知らなかったほうが良かった』と思う。
でも、この先も何も知らずに生きていく哀れな自分を思い浮かべると、その惨めさには耐えられなくなるのさ」
正義を語るような口調でそう言うと、彼はふっと眉を曇らせた。
その瞳の奥には、黒い影が静かに揺れている。
「知ったような口を利かないで。
あなたに……
あなたみたいな打算的な男に、私の何が分かるのよ!」
私と今泉さんの……
私たちの関係の……
「一体、何が分かるのよっ!」
全身の熱が一気に噴き上がり、私は荒々しい声を叩きつけて彼を睨み据えた。
睨まれた男は平然とした表情を崩さない。
諦めたように深く息を吐くと、一呼吸置いて手にしていた紙袋から茶封筒を取り出し、私へ差し出した。
私は唇を噛みしめたまま、険しい表情でその封筒へ視線を落とした。
「亜紀さんも、そのうち分かるよ……
俺の言葉の意味がね。
はい、これ返しておくよ。俺には価値のないものだから」
「……返す?」
「今夜、きっとこれが必要になるでしょ?
俺としては切り札として、もう少し後まで取っておきたかったんだけどな。
……残念」
ククッと喉を鳴らし、彼は強引に私の手へ封筒を押しつけた。
咄嗟に振り払った手が封筒を弾き飛ばす。
ガシャッとプラスチックがアスファルトへ叩きつけられる音が響き、封筒は私の足元へ落ちた。
「これって……まさか昨夜の……」
落ちたままの茶封筒を見つめ、口元が引き攣る。
「あ~あ。せっかくの証拠品なのに。
大切に扱わなきゃ駄目だよぉ。
割れちゃったらどうするの?余分にコピーなんてしてないんだから」
「……」
私は冷たい視線を落とすだけで、それを拾おうとはしなかった。
「要らないならいいよ。
ここへ捨てておけば」
直江先生は投げ捨てるようにそう言い、両手をポケットへ突っ込んだ。
「えっ!? 捨てておけばいいって……
ちょっと待ってよっ」
「じゃあ、亜紀さんに怒られちゃったし、今夜は大人しく帰るよ」
目を白黒させる私を残し、直江先生はわざとらしく地面の封筒を跨いで歩き出した。
「そんなっ!」
私は慌てて封筒を拾い上げ、複雑な思いごとバッグへ押し込む。
「あっ。 一番大事な忠告を忘れてた」
忠告?
「……なに?」
バッグの口を握り締めたまましゃがみ込み、狼狽を隠せない私はゆっくりと顔を上げた。
「くれぐれも、ミイラ取りがミイラにならないようにね」
「……どういう意味?」
「木菟引きが木菟に引かれる、とも言うね。
……あの二人には気をつけてね、亜紀さん」
彼は眉間へ皺を寄せ、今度だけは慎重な声でそう告げると、再び背を向けて歩き出した。
ミイラ取りがミイラに……
木菟引きが木菟に……
私は忌まわしい災いの種を押し込んだバッグを握り締めたまま、彼の姿が消えた闇を、いつまでも見つめ続けていた。
コメント
1件
直江先生の言葉、一見正論のように見えて、じわじわと相手の心を削る感じが本当に怖かったです…。「ミイラ取りがミイラになる」という最後の忠告も含めて、誰が本当に味方なのか分からなくなる不安が伝わってきました。亜紀さんの怒りと混乱がすごく生々しくて、胸が締め付けられました。次が気になります🤍