僕が通っている分校は、山の上にある。村の子どもは、十人だけだ。
みんな山を越えて、一時間かけて通ってくる。
僕もそのひとり。
道の途中で、蛇を見たり、鹿を見たりする。
木造の古い分校。
机も椅子も掲示物も、全部昔のまま。
昨日の夜から、激しい雨が降り続いている。
朝、お母さんから弁当を受け取って山を登った。
長靴の中まで、びしょびしょになった。
ふだんなら、教室の窓から見える川は白く光っている。
空気は澄んで、鳥が鳴き、静かだった。
でも今日は違う。
川の水位は高く、濁った水が音を立てている。
強い雨の音以外、何も聞こえない。
先生は、いつもその川の向こうから歩いてくる。
窓の外を見ると、先生が見えた。
黒いカッパを着て、全身を雨に包まれていた。
学校に入る前、先生はしばらく崖の方を見ていた。
その下を流れる川は、いつもよりもずっと速く、ずっと大きな音を立てていた。
そして、こちらを見た。
教室の中を見た。
僕たち十人を。
……僕の名前は、斎藤哲也。
この分校に通う、十人のうちのひとりだ。
「みんな、おはよう」
カッパを脱ぎながら、先生が教室に入ってきた。
「おはよーございますー!!」
「理恵先生!! コマッちゃんがパンツまで濡れた!ってフルチンでいるんですけど!!」
「あらら! 小松くん、タオルある? それ巻いてて!」
「へへへ……はい! せんせー!」
笑い声が広がった。
雨の音よりも大きかった。
「しっかし、マジやべぇ雨だな、こりゃ」
「まだまだ強く降るって、天気予報で言ってた」
「でも、雨ってあたしは大好き!」
「好きとか嫌いの話じゃねーだろ、まったく」
八時四十五分。チャイムが鳴った。
理恵先生は、分校の担任であり音楽の先生でもある。
ピアノやバイオリンが上手くて、都会からこの村に来た。
黒くて長い髪が、まだ少し濡れている。
笑うと、少しだけ頬にえくぼができる。
僕たちは、先生のことが好きだった。
「はい、それじゃ出欠確認しますよー」
先生は、手帳を開いて名前を読み上げた。
「大蔵くん」
「はい!」
「水野くん」
「いるよ」
「狭間さん」
「はーい!」
……順番に呼ばれる声が、雨の音に混ざっていった。
窓の外の川はもう、形がわからない。
濁った水がぶつかり合うたびに、低い音を立てていた。
「鳩山くん」
「います!」
「小松くん」
「いるけどパンツはいてない!」
また笑いが起きた。
理恵先生も少しだけ笑った。
「坂本さん」
「はい」
小さな声だった。
「内田さん」
「……はい」
先生が一瞬、窓の外を見た。
雨脚がまた強くなった。
風が吹くたびに、窓枠が鳴った。
「はい、全員いるね」
先生は笑って手帳を閉じた。
その音が、なぜか大きく聞こえた。
今日の一時限目は、国語か。
「じゃあ今日は、『山奥で』というお話を読みます」
先生が黒板にチョークで題名を書いた。
白い粉がふわっと空気に舞って、
光のない朝の中で、ゆっくりと沈んでいった。
「山の奥には、小さな村がありました。
村の人たちは、川の音で朝を知り、
鳥の声で夜を知りました……」
先生の声は、雨の音の隙間を縫うようにして響いた。
コマッちゃんが眠そうにあくびをした。
ルートがノートに題名を書き写している。
マリンは窓の外を見て、雨の筋を数えていた。
「山の奥では、春になると雪が解け、
水が山をくだり、田んぼを潤しました。
人も動物も、みんなその水で生きていました……」
チョークの先が、黒板の隅にコツンと当たる。
外の風が強くなって、窓の隙間から冷たい空気が入ってきた。
「……先生、これ、ここ?」
マリンが小さく聞いた。
先生が振り返る。
ほんの一瞬、笑って――そのあと、耳を傾けた。
雨音の向こうで、何かが動いた気がした。
地面の奥で、
誰かがゆっくり息を吸い込んでいるみたいに。
先生が……わずかに……微笑むのがみえた。
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