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オペ室へ続く長い渡り廊下。
病棟からの灯りは届かず、緊急オペが入らない限り、夜間は不気味なほど静まり返る場所だ。
静寂が漂う空間に、廊下を駆ける私の足音だけが響き渡っている。
楓ちゃん……
どうしてオペ室が好きなの?
病棟からオペ室への異動が決まった時は、
「一番配属されたくない場所に決まった」
そう言って落ち込んでいたのに。
……遼を好きになったから?
オペ室なら、遼に堂々と会えるから?
楓ちゃんの片想い?
――もし、遼が楓ちゃんに私の論文のことを話したのなら、二人の間には特別な何かがあることになる。
「まさか……そんな……」
一度抱いた疑念は膨らむばかりで、否定から始まった感情は少しずつ揺らぎ始めていた。
足音に煽られるように心臓の鼓動は速まり、コーヒーと菓子を収めた胃が重く軋む。
息を切らしながら廊下の突き当たりで足を止めた。
目の前には、オペ室の自動扉。
乱れた呼吸を整え、扉の横に設置された開閉センサーへ視線を落とした。
オペ室の扉は、壁の下にある感知センサーへ爪先をかざして開閉する。
そのセンサーは、作動中を示す赤いランプが点灯していた。
鍵は開いてる……
中に人がいる。
こんな時間に、外科医でもない私がオペ室へ入るなんて……。
もし中にいるのが楓ちゃんじゃなかったら、何て言い訳する?
『主人がいるかと思って寄りました』
――駄目だ。
そんなこと、今まで一度もしたことがない。
却って不自然だ。
……楓ちゃんがいたら、何て言おう。
『心配だから見に来た』
それとも、
『遼と何かあるの?』
と、本音をぶつける?
「……聞けるはずない」
何の根拠もない、一方的な疑いに過ぎない。
もし何か関係があったとしても、私に正直に話すわけがない。
漠然とした不安。
そして、胸の奥でじわじわと広がる屈辱感。
頭に上った血が、冷静な判断力を狂わせる。
抑えきれない感情のまま、赤い光を放つセンサーへ足先を近づけた。
踏み入れた空間には、幾つもの消毒薬が混じり合った独特の匂いと、足元が薄ら見える程度の闇が広がっていた。
非常口を示す緑色の灯りに照らされ、オペ室専用のスリッパがぼんやりと浮かび上がる。
夜のオペ室って、気味が悪い……。
私はスリッパに履き替え、周囲へ視線を巡らせながら固唾を吞んだ。
張り詰める緊張。
まるで他人の家へ忍び込むような気持ちになる。
床を擦る足音を忍ばせ、ゆっくりと奥へ進んだ。
突き当たりには二重扉があり、その手前の部屋からわずかな灯りが漏れている。
あの部屋は……
確か、スタッフの休憩室だった気がする。
慎重に歩み寄り、灯りの漏れる部屋の前で足を止めた。
深呼吸を一つ。
遠慮がちに扉をノックする。
「……」
扉の向こうからは、物音一つ返ってこない。
……誰もいない?
まさか、オペ室を開けっぱなしで帰るなんて有り得ないよね。
今度は少しだけ指先に力を込め、もう一度扉を叩いた。
やはり返ってくるのは沈黙だけだった。
ドアノブへ手を掛け、小さく声を落とす。
「お邪魔します……」
視界に入ったのは、小さなテレビと茶色の長ソファーが二つ。
そのソファーに人の姿はなく、代わりに見覚えのある大きなビニール袋が目に飛び込んできた。
楓ちゃんが濡れた服を入れた袋……
やっぱり中にいるんだ。
緊張で表情を強張らせたまま、室内を見渡す。
パソコンが置かれた机へ歩み寄ると、入室した時には見えなかった通路が柱の向こうに続いていた。
開いたままの扉から、そっと中を覗く。
広い空間には、院内で使用する器具を滅菌するための機械が整然と並んでいた。
「オートクレーブ……中央材料室……?」
――そうか。
休憩室と中材室が繋がっているんだ。
その奥は……
ナースが使うオペ室の裏口?
暗闇のどこかから、
ピチャッ……
ピチャッ……
と、水滴の落ちる音が聞こえてきた。
その音とともに、何かがこちらへ近づいてくるような錯覚に襲われ、背筋へ冷たいものが走る。
逃げるように中材室を抜け、さらに奥に見える扉を静かに開けた。
やっぱり、オペ室へ続く通路だったんだ……
各扉に記された数字を見つめ、恐怖を抑えるように胸へ手を当てる。
「楓ちゃん……」
どこにいるの?
薄気味悪い静寂が続く。
その奥から、ひやりとした空気が流れ込んでくる。
周囲の音が消えた世界で、耳鳴りのような音だけがじんと響いている気がした。
胸に手を当てたまま、深呼吸を繰り返す。
扉のすぐ横に掛けられた専用ガウンを羽織り、暗闇へ目を凝らした。
自分の行動が異常だと分かっている。
それでも、心に渦巻く衝動は抑えきれなかった。
芽生えた疑念が、私の背中を押していく。
暗闇の最奥に浮かぶ、一つの灯り。
あのオペ室に、楓ちゃんが?
足音を忍ばせ、かすかな光が漏れる扉の前で足を止めた。
扉の上には、『手術室7』の文字が記されていた。
コメント
1件
うわ、第78話…この夜のオペ室の描写、異様な緊張感がすごかったです。水滴の音、かすかな灯り、足音だけが響く静寂——読んでるこっちまで息を止めてしまいました。主人公の疑念が膨らんでいく心の動きが、暗闇の奥へ進む行動と重なって、ゾワゾワしながらもページをめくる手が止まらなかったです。楓ちゃん、本当に何か隠してるんでしょうか…続きが気になりすぎます!