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#海辺の町
重くなりかけた空気を、最初に壊したのは絋規だった。
午後、写真館から持ち込んだ古い写真を縁側で干そうとして、彼は湯のみを見事にひっくり返した。熱くはないが、写真の端にしっかり水が走る。
「あっ」
という声が一つ。
「うわあっ」
という声が三つ。
絋規は一瞬止まり、次の瞬間、雑巾を取ろうとして廊下で足を滑らせた。勢いのまま畳の前までつるりと進み、啓介と芽生の前で両手をついて止まる。
形だけ見れば、完璧な土下座だった。
「申し訳ありませんでした!」
絋規がそのまま叫ぶ。
数秒の静寂のあと、義海が耐えきれず噴き出した。
「なんでそんなにきれいに滑るんだよ!」
「狙ってない!」
「狙ってないほうがすごい」
莉々夏が机を叩いて笑う。
享佑でさえ、さすがに口元を押さえた。海花は濡れた写真を救い上げながら肩を震わせ、蓮都は「謝罪の角度が百点」と真顔で言う。
絋規はまだ床に手をついたまま、顔だけ上げた。
「笑う前に誰か助けて」
「その姿が面白いんで無理」
啓介が返した途端、自分でも驚くくらい自然に笑っていた。
芽生も、最初は呆れた顔をしていたのに、とうとう耐えられなくなったらしい。声を立てて笑う。普段はきれいに整えている人なのに、その時だけは肩が揺れすぎて、机の上の紙が少しずれた。
「写真、大丈夫ですか」
絋規が聞く。
「端だけ。乾かせばいける」
海花が答える。
「よかったあ……じゃあ改めて」
「もうしなくていい」
享佑が止めた。
離れの中は、久しぶりに腹の底から笑う空気になった。さっきまでの行き違いも、焦りも、少しだけ横へずれる。
笑いの波が落ち着き始めたころ、啓介はふと芽生の横顔を見た。
芽生はまだ笑っていた。口元はちゃんと上がっている。
なのに、目の端だけが、うっすら濡れていた。
笑っているのに。
泣いているみたいだった。
そのことに気づいたのは、たぶん啓介だけだった。