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#糸
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入学式の翌日。 教室の喧騒から逃れるように、私は一人、校舎の最上階にある手芸部の部室へ向かっていた。
昨日、私のブレザーの袖口からぷつりと切れた、あの白い糸。 それを直すための針と糸を借りる、ただそれだけの理由だった。
「失礼します……」
古びた木の扉を押し開けると、そこは西日に照らされた、小さな楽園だった。 色とりどりの糸、様々な柄の布、そして、少し埃っぽい、けれど温かい空気。
先客は誰もいない。 私は安堵して、棚に並んだ糸の中から、自分のブレザーと同じ紺色の糸を探し始めた。
「……どれだろう」
似たような色が多すぎて、迷ってしまう。 その時、背後で扉が開く音がした。
「あれ、新入生?」
振り返ると、そこに立っていたのは、昨日掲示板の前で声をかけてきた、彼だった。
航(わたる)。
「あ……」 「昨日ぶり。やっぱり、糸、気になってたんだ」
彼は私の手元にある紺色の糸のストックを見ると、迷いなく一本の糸を手に取った。
「これだよ。君のブレザーには、この糸が一番馴染む」
彼はその糸を私に差し出し、そのまま部室の奥にある窓辺の椅子に座った。 鞄から取り出したのは、手芸用品ではなく、古びたカメラだった。
「航くん……? ここ、手芸部の部室だよ」 「知ってるよ。でも、ここ、一番夕日が綺麗なんだ。誰も来ないし、写真撮るのにちょうどいい」
彼はカメラのレンズを窓の外に向け、シャッターを切った。 その横顔は、昨日の入学式で見せた笑顔とは違って、どこか寂しげで、やっぱり、遠い空を見上げているように見えた。
私は彼に背を向け、自分のブレザーの袖口に針を通した。 紺色の糸が、ほつれた布を少しずつ繋ぎ止めていく。
「なぜ めぐり逢うのかを……」
昨日のモノローグが、頭の中でリフレインする。 彼が教えてくれた糸は、驚くほど私のブレザーになじんで、どこを直したのか分からないくらいだった。
「直った?」 「うん。ありがとう」 「……不器用そうに見えて、案外、器用なんだな」
彼はカメラを鞄にしまうと、椅子から立ち上がった。 そして、私の手元にある、まだ針に通ったままの紺色の糸をじっと見つめた。
「俺は、何かを繋ぎ止めるなんて、苦手だから」
その言葉の意味を、当時の私はまだ理解していなかった。 ただ、彼の背中が、窓から差し込む西日に溶けていくのを、見つめることしかできなかった。
横の糸である私の、不器用な戸惑い。 それが、縦の糸である彼と、二度目に交差した瞬間だった。