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舞踏会当日。ホテルは朝から落ち着きをなくしていた。花の運び込み、椅子の整列、照明確認、最終のリハーサル。誰もが走っているのに、ディアビレだけは時間の外へ置かれたみたいに、息をうまく吸えなかった。
正面階段を使えばセルマに見つかる。そう判断したフレアとゲティに押され、ディアビレは夕暮れの裏口から会場へ入った。海からの風がまだ少し冷たい。
「顔が硬い」とフレア。
「逃げるなら今のうち」とゲティ。
「脅さないでください」
二人に挟まれて歩いていくと、柱の影にジナウタスが立っていた。今夜の彼は夜勤の紺ではなく、黒に近い深い色の礼装だった。いつもより静かなのに、むしろ目を引く。
フレアとゲティは心得たように一歩下がる。
ジナウタスは何も前置きせず、小さな箱を差し出した。中には銀の髪飾りが入っている。細い柄の先がスプーンの形に丸くなっていて、持ち手の裏には小さくルナ・マグの文字が刻まれていた。
「これ……」
「昔、店で使っていた意匠を直した。終わったら返して」
「貸す前提なんですか」
「返しに来る理由ができるだろ」
あまりにも真顔で言うので、笑いそうになる。けれど手に取った銀の重さは、不思議なくらい心を落ち着かせた。
彼の指が髪に触れ、飾りが留められる。ほんの一瞬なのに、耳の後ろまで熱くなる。
「似合う」
短いその声に背を押されるようにして、ディアビレは階段へ向かった。
会場へ続く上段に立った時、下のざわめきがふっと途切れた。光が一斉にこちらを向く。階段下には、同じく顔を上げたジナウタスがいた。
視線が合う。
それだけで、胸の中の音が大きくなりすぎた。
#海辺の町