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翌朝、俺は一人で目覚めた。
椿はいつものように朝ご飯の準備をしていた。
そして、俺に言った。
「昨夜のことは忘れてください」
今にも泣きそうな表情で言われたら、そうするしかない。
椿のむき出しの感情に、少しは距離を縮められたと思ったのは俺だけだったのだろうか。
朝から悶々とした。
悶々としすぎて、無意識に心の呟きが声になってしまった。
「家族ってなんだ……?」
「なんだ、それ?」
谷が聞き返す。
「随分とスケールのデカいテーマで悩んでんなぁ」と、溝口部長。
二人に昼飯に誘われ、外に連れ出された。
社食ではないのかと不思議に思ったが、今日はそれで良かった。
「何でもないです。で、話って?」
「是枝の相談に乗ってやろうと思って」
「は?」
二人はニヤニヤと、お世辞にもいい男とは思えない表情。
「昨日、食堂で堂々と『椿』って呼んだんだって?」
「――――――っ!!」
言われてようやく気が付いた。
完全に無意識で、言ったかどうかの記憶すら定かでない。
「あきらから聞いてさ。けど、やなちゃんの感じじゃ、付き合ってますって雰囲気でもなかったって」
「あーーー……」
俺はテーブルに肘を立て、額を手で覆った。
椿は昨日、そのことについては何も言わなかった。
食堂でからかわれたりしたのではないか。
昨日の取り乱しようは、それも要因の一つではないのか。
「拗らせてんなぁ……」
顔を見なくても、溝口さんが呆れているのは声で分かった。
「一言二言からかわれたみたいだけど、食堂の人たちはお前を応援してくれてるらしいぞ」
やっぱり、からかわれたのか……。
それで、俺の気持ちは本気なのかと聞いたのだろうか。
「あきらが言ってたよ。やなちゃんが徹底して他人のことばかり気遣うのは、人に優しいとかのレベルじゃないと思うって」
「どういう意味だ?」
溝口さんが水のコップを口に運びながら聞いた。
「あきら、大学で心理学を勉強して、結婚前は区役所で、学校にカウンセラーを手配するとか、学校だけじゃ対処できない案件を扱ってたんです。で、そのあきらが言うには、あそこまで他人に腰が低いのは、自分に自信がない程度のことじゃなくて、もっと根深いものがあると思うって」
「根深いものって……虐待とかってことか?」
「可能性の一つ、ってことですよ?」
あきらさん、すげーな。
感心すると同時に、椿が虐待を受けていたかもしれないなんて誤解を解かねばと思った。が、事実を伏せて、どう説明するべきか。
「虐待では、ない」
とりあえず、簡潔に最重要部分の事実を言った。
「お前は彼女の事情を知ってるのか?」
「はい。けど――」
「――あー、いい。言えないのは当たり前だし、変に誤魔化されて変に思い込むようなこともしたくない。俺たちがどうにかできることでもないだろう? あ、ほら、きたぞ」
料理が運ばれてきた。
連れてこられたのは各席に仕切りがある、半個室タイプのスープカレーの店。
俺はチキン、溝口さんはポーク、谷は角煮を注文した。
三人の中で一番辛さを強くしたのは、谷だった。
溝口さんが紙エプロンではなくてハンカチを取り出して襟に引っ掛けた。
「この前、カレーうどんを食った時にワイシャツに引っ掛けたら、めちゃくちゃ怒られてさ」
「カレー、落ちないですもんね」
「紙エプロンなんか格好悪いって言ったら、ますます怒って。エプロンしててもついたなら仕方ないけど、格好悪いとかくだらない理由で汚すなら、もう洗濯しないって」と言いながら、溝口さんは更に紙エプロンも着ける。
「まぁ、社内の面子なら格好も何もないけど、半分接待みたいな状況だと、相手次第ですかねぇ」と、谷が頷く。
「相手は作業服だからいいけどさ、俺だけスーツで紙エプロンしてたら、上品ぶってるとか思われそうじゃね?」
「洗濯する立場としては、それがくだらないプライドだとか思うんでしょうね。俺も怒られないように着けよ」
谷も紙エプロンに手を伸ばす。
俺も、そうした。
「洗濯してくれて有難いと思うのと、口うるさくて鬱陶しいと思うの、どっちが大きいもんですか?」
単純な疑問。
他の同僚や部下もそうだが、よく奥さんは口うるさいとか怖いとか愚痴を言っているのを聞く。
女性側も同様だ。
独身者からすると、結婚のイメージが悪くなるばかり。
「有難みだな」と、溝口さんは当然のように言った。
「うん、俺も」と、谷。
「そもそも、口うるさいと思うことはあっても、鬱陶しいとは思わないしな」
「そういうもんです?」
カトラリーの箱の近くに座っていた俺は、二人にスプーンを手渡す。
溝口さんはそれを受け取ると、ワイシャツの袖を二捲りした。
「うちの奥さん、本気で怒ると無言になるんだよ」
「無視ってことですか?」
「いや。挨拶とかはするし、声をかければ最低限の返事もする。飯も作る。けど、それ以外は徹底して無言。で、ひたすら掃除する」
「ガミガミ言われるよりきついですね」と、谷。
「そ、こえーよ。口うるさいくらいがちょうどいいって思う」
「そういうもんですか」
俺はヤングコーンをすくって口に入れた。
「ワイシャツもさ、エプロンしたけど染みたとか言えば、そんなに怒らないんだよ。実際、子供がエプロンしてたけど、袖にミートソースが飛んだとかいうのは、文句は言ってたけど怒ってなかったし。けど、習字だからって黒のジャージを着て行ったのに、よりによって習字の時間に上着を脱いで白Tシャツを汚してきた時は、めちゃくちゃキレてた。ま、シャツを汚したことよりも、言われたことを忘れたとか、そもそも習字の時間に白Tシャツになることに何も思わなかったことに対してだけど」
「それで、その後は?」
「子供が謝って、彩が手洗いしてた。けど、またやらかして、彩は何も言わずに、次の習字の時間は汚れたままのTシャツを着せてた。どうせまた汚すならもう手洗いしないって」
「なるほど」
「で、俺はエプロンを二重にして、袖を捲ってるってわけだ」
溝口部長は大きめの人参を口に入れると、熱かったらしく眉をひそめた。
谷は、俺たちのより赤みの強いトマトスープをすすっている。
俺は大きめのじゃがいもにスプーンを入れて割った。
「そういうの、煩わしく思わないもんですか?」
「煩わしい……くはないな」と言ったのは、谷。