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店内が騒がしくなってきて、ふと入口を見ると、同じくサラリーマンと思しきスーツを着た集団が満席だと言われて店を出て行くところだった。
二人に言われて、十二時少し前に入店して良かった。
「あきらちゃんてあんまり口うるさいこと言わなそうだよな」
部長が人参を飲み込み、水を飲む。そして、テーブルの端に置かれたポットの水を注ぐ。
俺と谷の分も注いでくれた。
「んーーー。口うるさくはないかな。つーか、ウチは俺もやるようにしてるし」
「分担してんの?」
「いや、休みの日に気がついたらやる程度。先に起きたら洗濯機を回すとか、終わってるの気がついたら干すとか。あきらが食器洗ってる間に掃除機かけるとか?」
「へぇ……」
それは、口うるさく言われることもないだろう。
「いい旦那だなぁ」と、部長も頷く。
「尽くすタイプなんで」と、谷は若干ドヤ顔。
「自分で言うんだ」
「ホントのことだし。けど、ぶっちゃけ休みの日にあきらが俺より早く起きれないのは俺のせいだから、ソッチの制限されないように? っていう下心はある」
「感心して損した」
部長がジトッと横目で谷を見る。
「下心でもなんでも、部長は家事しないんですか?」
「彩が休出の時とかはする。けど、基本的にはしないな。長年の習慣なのか、俺がやるとやけに申し訳なさそうにされるし」
「そういうもんですか」
段々、結婚生活のリサーチみたいになってきた。
「食器洗ったりは普通にするけど、洗濯物を干すとかはほとんどしない。逆に怒られるし」
「怒られるんですか?」
「あ! わかります。なんか、マイルールみたいなのがあるんですよね」
「そ。この服はこのハンガーを使うとか、靴下はセットが隣になるように爪先側を挟むとか」
「服の肩の位置がずれてると怒られますね」
「そうそう」
聞けば聞くほど、面倒だ。
俺は、椿と暮らす前は、下着と靴下以外はほとんどクリーニングに出していた。
下着も靴下もワイシャツも、ゆうに二週間分は持っているし、一週間分は新品をストックしてある。
独身の男なんて、そんなもんだろうと思っていた。
が、椿は一日おきに洗濯をし、ワイシャツも洗ってアイロンをかけてくれる。
感謝はしているが、そんなにこまめに丁寧にしなくてもいいのにとも思う。
「やなちゃんも家事全般きっちりしてそうだよな」
急に自身に話を振られて、ハッとする。
「口うるさくもなさそう」
「口うるさいどころか、俺に意見なんてしないし……」
「それは、あれだ。居候させてもらってるから遠慮があるんだろ?」
「ああ、そっかぁ。まだ、同居から同棲に格上げできてないもんね」
遠慮、同居、と心臓を狙って飛び出してくる言葉に、俺は動揺を悟られまいとスープを口に運ぶ。
「ま、家族なんてなってみてからの話だ」
「そうそう。なる前からカタチを決めちゃってたら、厄介だぞ?」
「カタチを決めるも何も、家族って単位が未知すぎて……」
「お前は? 親とか」
「会ったことないんで。祖母に育てられたんですけど、一緒に飯を食ったこともないですし」
「…………」
「それは……、『大変だったな』とか『可哀想だな』とか言った方がいい感じか?」
言葉に困る谷とは違い、部長は容赦なくストレート。
「そうゆうんじゃないです。変な環境でしたけど、金銭面ではかなり恵まれてましたし。けど、ホントに家族団欒とかはわからないんで、結婚そのものにまったく興味もなくて」
「それでも、しようかなって思えるんだよ」と、溝口部長が空になった器にスプーンを置いた。
「それでも、こいつと結婚したいって思えたりするんだよ」
「経験ですか?」
「まあな。俺は祖母ちゃんと姉さんと一緒に暮らしてたし、それなりに団欒もあったから、お前の気持ちがわかるとまでは言わないけど、ずっと一人で生きてきて、それなりに女とも付き合って、裏切られたりもして、もうこのまま一人でもいいかなって思ってたんだけどな。ベタだけど、明るくて暖かい家に帰るってのを経験しちまうと、やっぱなぁ」
それは、同感だ。
玄関を開けて、部屋が明るいだけで気持ちが変わる。
「自分の為に作られた飯とか食ったら、スーパーの総菜とか味気ないのなんのって」
確かに。
椿と暮らすまでは、面倒で食わないこともあったが、今は朝と夜は必ず椿と一緒に食べている。
まだ、たった数週間だが、既に独り飯が侘しい。
「そういうのを手に入れるための手段の一つじゃないか? 結婚て」
「手段の一つ……」
「色気のない言い方をすれば、そうだ。一緒にいたい女がいて、そいつの作った飯を毎日食べたくて、そいつを毎日抱いて眠りたいと思う。逆に言えば、手放したくない女がいて、そいつの作った飯を他の男には食べさせたくなくて、そいつが他の男に抱かれるなんて許せない、って思うなら、結婚てカタチがベストだってこと」
部長の言葉が、ストンと胸の奥に落ちる。
部長が紙エプロンとハンカチを同時に襟から引き抜き、俺は自分も紙エプロンを着けたままだと気づいた。
谷も同じらしく、揃って外す。
「あとは、アレだ。何かあった時に真っ先に連絡が欲しい、かな」
「連絡?」
「そ。恋人ってだけじゃ、彩が事故に遭っても俺には知らされないし、家族じゃないから病室にも入れてもらえない。逆もだ。俺が事故に遭っても彩には知らされないし、死の間際でも立ち会えない。それが、怖いと思ったな。後は、孤独死」
「それが一番かもしれないですね」と、谷も頷く。
「色々変わりつつあるけど、やっぱり、家族が最優先なんだよ。緊急連絡先、保険金の受取人、手術の同意書、身元保証人、喪主とかな。で、どんなにたくさんの友人に囲まれて楽しく生きても、家族がいないと天涯孤独だと言われる。正式な遺言書でもなければ、恋人の立場じゃ葬式も出せない。ま、要するに、家族ってのは自分以外の誰かの何かに対する決定権を与えられるって事かもな」
「俺は友達に、『世界が滅亡する瞬間に一緒にいたいのは?』って聞かれて、迷わずあきらの名前を挙げたんだよ。あの時、覚悟が出来たっつーか、迷いを吹っ切ったかな」
孤独死、天涯孤独、世界の滅亡。
考えもしなかった。
年齢的にも孤独死なんて何十年も先のことだろうし、自分が天涯孤独だなんて表現の枠に当てはまるとも思っていなかった。
世界の滅亡は、最早俺個人のことではない。
聞けば聞くほど、俺に結婚は無理なんじゃないかと思えてくる。
「つーか、そもそも、まともにお付き合いもしてないこの状況で、どうして結婚なんて悩むんだよ?」
一時間弱の会話を全てひっくり返すような、部長の疑問。
「椿を安心? させたくて……」
「お前が安心したいんだろ?」
「え?」
「俺は何かあったら真っ先に彩に駆け付けて欲しいし、看取って、喪主をやってもらいたいと思う。谷は、世界が滅亡する時はあきらちゃんにそばにいて欲しい。是枝は、やなちゃんが自分の女だと安心したい。そういうことだろ?」
「はぁ……」
なんだかんだと色々聞いたが、上手くまとめられた感が釈然としない。
「結局、考えもしなかった結婚を考えてる時点で、答えは出てるんだよ」
部長が伝票を持って立ち上がる。
俺と谷も後に続いた。
黙って三人分の会計を済ます部長の背中は、とてもカレー染みを恐れるようには見えない。
とりあえず、俺と谷は店を出た。
「俺も部長もどんな理由をつけたって、結局はこの人と一緒にいられたら幸せだって思ったから結婚したんだ。だから、お前もお前の幸せを考えてみたら?」
「俺の幸せ?」
「そ。人間なんて単純で我儘だからな。相手にしてやりたいことってのは、自分がして欲しいことなんだよ」
「うわー。カッコ良くて腹立つな」
財布を仕舞いながら部長が店から出て来た。
俺と谷は揃ってお礼を言う。
「悩める部下に飯を奢ってやりたいって気持ちは、小遣い制の上司を労ってたまには奢れって圧の裏返しって事かもな?」
そう言ってニヤリと笑う溝口部長の襟に、ポツッと赤い染みが目に入った。
俺と谷は顔を見合わせ、カレー染みがないか自分のワイシャツを見回した。