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#海辺の町
翌日、澄江は海鳴り寺へ来た。
正面の石段ではなく、門の脇をそっと回り込むようにして。
離れの前で足が止まった時、緊張していたのは澄江より啓介のほうだった。けれど澄江は「大丈夫」と言葉にする代わりに、縁側の板へそっと手を置いた。その仕草だけで、もう半分は答えになっていた。
芽生が静かに戸を開ける。
中には整えられた机、札絵、湯のみ。昨日までと同じはずの離れが、今日は少しだけ呼吸を浅くして待っているように見えた。
「昔と、匂いが似てる」
澄江がそう言った瞬間、啓介の肩から少し力が抜けた。
皆は近づきすぎず、離れすぎず、澄江のまわりへちょうどいい余白を作った。鼓夏がいれたお茶の湯気が、ゆっくりと上がる。
「ここはね」
澄江は湯のみを両手で包みながら言った。
「泣いてもいい場所だったの。しゃべれない日も、何も聞かれない。誰かがいて、湯気だけは途切れない」
芽生が、できたばかりの札をそっと差し出す。
『こ 孤独の温度は、湯のみ一杯で変わる』
澄江はその文を見て、小さく笑った。
「変わるのよね。本当に」
啓介は母の姿を思い浮かべる。前へ出るでもなく、背中で励ますでもなく、ただ湯のみを置いて、座る場所をあけていた人。
「ここが古い建物だから残してほしいんじゃないの」
澄江は離れの中を見回した。
「ここで、ひとりでいていい時間をもらったから」
その言葉に、美恵がそっと目を伏せた。数字では拾いきれない価値が、ようやく声になったのだと分かった。
しばらくして、澄江が別の一枚へ指を伸ばす。
「もし、いいなら」
皆の視線が集まる。
「このかるた、私にも一枚読ませて」
待っていた声が、自分から前へ出ようとしていた。
離れの空気が、今度はあたたかいほうへ大きく動いた。
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