「中学生の頃に両親を亡くしまして――」
ゴミを集めながら、柳田さんは話し始めた。
「――年金暮らしの祖父母に育てられたんです」
俺は手を止め、彼女の背中で揺れる三つ編みを眺めていた。
「その後、高校を卒業してすぐに祖父を、二十歳になってすぐに祖母も他界しまして。もともと無理をして私を引き取ってくれたらしく、祖父が亡くなって祖母が入院した頃に、借金があるとわかったんです」
淡々と話す彼女は、いつも通り無駄のない動きで、ワゴンの中に広げられたごみ袋に向けてゴミ箱をひっくり返していく。
単純な好奇心で、社食と清掃の仕事を掛け持ちしている理由を聞いたが、失敗したと思った。が、聞いた手前、話を止めるのも失礼だと思い、黙って聞くしかなかった。
「……あの」
彼女が振り返る。
「楽しい話ではないので、やめましょうか」
「え?」
「他人事とはいえ、気が滅入るような話題は――」
「――きみの気が滅入るなら、やめよう」
「え?」
「話したくないことは、話さなくていい」
柳田さんの思考は、どこまでも予想を裏切る。
こんな時にまで、自分のことより相手のことを気遣う彼女に、少しだけイラッとした。
金曜の、二人でいるところを谷に見られた時もそうだ。
あの状況なら、男の俺の名誉より、自分の名誉を守るのが普通だろう。
「話したくないとは思いません。是枝部長の疑問に、お答えするだけですし。ただ――」
「――誰にでも、知られたくないことくらいあるだろう?」
少し聞いただけでも、彼女にとってかなりデリケートな部分。
それを、「どうして掛け持ちなんてしているのか」なんて軽い問いに答えるために明かしていいわけがない。
「知られたくない……というほどのことではないんです。総務部長はご存じですし」
「そうなの?」
「はい。清掃業務を掛け持ちさせて欲しいと申し出た際に、お伝えしました。借金返済のために、働かせて欲しいと」
「そう」
「はい。それに、経営戦略企画部にお誘いいただいたからには、受け入れられない理由をきちんと話すべきでした」
「いや、そんな――」
律儀すぎだろ、と思った。
同時に、彼女の事情が分かれば、なにか助けになれるのではとも思った。
「――柳田さんが嫌でなければ、聞かせてもらっていいかな」
「はい。あ、清掃しながらでもいいですか?」
「うん」
柳田さんは再び俺に背を向け、ごみを集める。
「ご存じだと思いますが、借金をした本人が亡くなった場合、財産放棄をすれば借金返済の必要はないんですが、私の場合は祖母が入院するにあたって、年金や保険関係を管理することになり、借金がわかりました。借金の理由が私の進学費用だったこともあり、祖母が亡くなった後も私が返済しています」
「返済のために、あのアパートに住んで、業務を掛け持ちしている?」
「はい。社食の業務は、他の業務とは勤務形態が異なるので、お給料もそれに応じた基準なんです。ですから、以前は終業後に清掃会社でアルバイトをしていましたが、外部委託していた清掃業務を、内部業務に切り替えると知って、課の掛け持ちをお願いしたんです。二つの業務は勤務時間が重なりませんから」
柳田さんは全てのゴミを集め終えると、ワゴンの脇に引っ掛けてあるモップを抜いた。ワゴンを置いて、モップで床を磨き始める。
「是枝部長が仰ったように、経営戦略企画部のお給料は社食業務よりずっといいと思います。ですが、社食の業務は楽しいですし、清掃業務と掛け持ちすることで、早朝、深夜手当もいただけているので、合算しますと、現状の方が幾らかでも多くいただけると判断いたしました」
「そっか」
柳田さんがモップを止め、スッと背を伸ばした。そして、直角に折る。
「お声がけいただいたことは、本当に嬉しかったです。ありがとうございました。お受けできず、申し訳ありません」
本当に、どこまでも律儀な人だ。
俺の誘いに対して、彼女は正直に断りの理由を話した。
いくら事実とはいえ、若い女性が借金返済に追われているなど、知られたい話ではないだろうに。
「借金の返済が遅れるから、あのアパートを出たくない?」
「はい」
彼女の暮らすアパートを思い浮かべた。
深夜の喧騒、薄暗い街灯、軋む階段、床が腐った部屋、住人の嬌声。
大きなお世話なのは承知の上だが、どうしても気になる。
何かあってからでは遅い。
「けど、取り壊しになったら?」
「え、それ……は――」
「――ルームシャアに興味ない?」
無意識だった。
自分は注意深く、慎重な人間だと思っていたが、柳田さんと知り合ってからそれは間違いだと気づかされた。
「俺のマンション、部屋が余ってるんだよね」
「……えっ!?」
当然、レンズの向こうの碧い瞳が見開かれる。
言っておきながら、何を言っているんだと自分でも思う。
「俺とルームシェアしない?」
「ええっ!?」
「あのアパートはやっぱり危険だと思う。男と暮らすのも危険を感じるだろうけれど、きみの部屋には鍵をつけて――」
「――ありがとうございます!」
今日、何度目か。彼女が腰を折る。
「私などをお気遣いくださり、本当にありがとうございます。ですが、その、こんな境遇ではありますが、世間では一人前と言われる成人した大人で、安定した収入もあります。部長にご迷惑をかけずとも生きて――」
「――ストップ! ごめん!!」
今までで一番の早口に呆気に取られていた俺は、制止が遅れた。
だが、冷静さを取り戻せた。
「ごめん、いきなり変な提案をして」
そうだ。
彼女には恋人がいる。
俺なんか、お呼びじゃない。
「柳田さんを子ども扱いするつもりも、まして、同情するつもりもなかったんだ。本当に申し訳ない。忘れてください」
「そんな……。はい、あの、忘れます!」
納得するしかない。
これ以上は、彼女を困らせるだけだ。
俺は立ち上がり、その場で先ほどの彼女と同様に直角に腰を折った。
「正直に話してくれてありがとう。そんなに忙しい中で手伝ってくれてありがとう。とても助かりました」
「いえ、そんな! 私の方こそ、ありがとうございました。部長の、こんなに重要なお仕事に少しでも携わることが出来て、とても勉強になりました」と、彼女もまた頭を下げる。
俺は彼女の肩から垂れて揺れる三つ編みを見て、思わずフッと笑ってしまった。
柳田さんが顔を上げる。
俺が笑った理由がわからないのだろう。探るようにじっと見つめられた。
「俺たち、お互いにお礼を言ったり頭下げ合ったり、なんか……カタイ、な」
「すみません! 私が――」
「――いや、柳田さんがどうとかじゃなくて。ただ、せっかくこうしてお近づきになれたんだから、もう少し肩の力を抜いて話せないかな」
「……はい。あの、気をつけます」
彼女と打ち解けるのは、もう少し時間がかかりそうだと思った。
そして、それもまた楽しそうだとも、思った。
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