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#恋愛
ばたっちゅ
20,038
#ファンタジー
comi
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地上階へと向かうエレベーターの中、金属が擦れる微かな振動と、機械音だけが支配する沈黙の空間で、ヒロノゼウスは白衣の内ポケットから、一通の丁寧に折り畳まれた手紙を取り出した。封の折り目には、長く仕舞われていた時間の跡が残っている。彼は無言で封を開き、視線を落とした。
そこには、ルーフの筆跡。あの頃の彼女は、今とはまるで違っていた。紙面には、驚くほど素直で、まっすぐな文字が並んでいる。
ヒロノゼウスさま
はじめまして。帝国生物科学研究所から赴任しました、
ルーフ・カリーニです。
エルフエナジーを使って、動植物も、モンスターも、人間も、
すべてが互いに心を通わせ、言葉を交わせるようになれば、
毎日の生活はきっともっと優しく、豊かになると思うの。
見えないけれど確かに存在する「生物の力」。
それを恐れや排除ではなく、理解と共存のために使いたい。
そのためには、あなたの知識と感性が必要なの。
どうか、私の本心を受け止めて、協力してほしいの。
お願いします。
ルーフ・カリーニ
ヒロノゼウスは一度だけ深く息を吐き手紙をゆっくりと折り畳み、胸ポケットへ戻した。指先で紙の質感を確かめるように、もう一度、静かに撫でる。あの頃の彼女は、“信じる”ことを恐れなかった。
胸ポケットへ戻された手紙の重みが、なぜか今になって、心臓の鼓動よりもはっきりと感じられた。
進化とは、本来、静かに時を重ね、内側から変化していくものだ。あの頃、俺はルーフの研究に、本気で魅せられていた。遺伝子の深層に刻まれた“生命の設計図”に挑もうとする姿に、科学者としての誇りと情熱を感じていた。
だが、あの日、俺は一線を越えてしまった。
セブン。
自由に空を舞い、俺の肩に降り立ち、
どんな苦しい日も共に過ごしてきた相棒だった。
そのセブンを、ルーフの「一度だけ」という言葉に押され、俺は実験台にしてしまった。知性強化。思念通信の拡張。高度学習能力の付与。
……手に入れたものは確かに“成果”だった。だが同時に、セブンの中から
“心の光”が薄れていくのを、俺は見てしまった。
あれは創造なんかじゃない。命をいじり、心まで設計し直し、理想に都合よく作り替える。それは支配だ。
その瞬間から、俺はルーフの思想に背を向けた。あいつは「より良い生命の形」を語るが、その実、選別し、分類し、望ましい“モデル”を作り上げようとしている。
そして対象をついに“人型モンスター”の製作をすると宣言した。そのとき俺は悟った。あいつとはもう、同じ道を歩けないと。以来、俺とルーフは“犬猿の仲”というわけだ。それでも、ヒロノゼウスはふっと口元を緩める。
「だが、あの女の“本心”だけは、嘘じゃない。誰よりも傲慢で、毒舌で、だが本気で“命に夢を見ている”」
小さく笑いながら呟く。
「頭と情熱だけは本物か……」
上昇するエレベーターの駆動音が、その独り言に静かに重なる。やがて扉が開き、短い風圧が白衣を揺らした。目の前にジン博士が立っていた。ヒロノゼウスの不機嫌そうな顔を見て、博士はわずかに眉を上げ、静かに言った。
「ヒロノゼウス。……下で、また一騒動おこしたのか」
「ええ、いつものことです」
ヒロノゼウスは、肩で息をしながら淡く笑った。汗のにじむ額を手の甲でぬぐい、顔を上げる。
「後日、イーサム王とリヴァン首相が王研に視察へ来ることになった」
「陛下とリヴァン首相が?」
ヒロノゼウスの声が、思わず高く跳ねた。
「あの特別研究区で行われている、家政モンスター高度知能化政策の視察が御前会議で決まった。ようやく、あの研究区で行われている実態が明らかになる。私も同行を願ったが、ラマズドに却下された」
「視察で改善されたらいいのですが……博士、もしこの研究所で、魔物が暴れたらどうしますか?」
ヒロノゼウスの指先が無意識に拳を握る。
ジン博士は目を閉じた。照明の反射が彼の眼鏡に一筋の光を描く。
「……私はこの研究所を一から立ち上げた。王立科学アカデミー研究所が夢と理想を掲げて歩み始めたあの日から、ずっとな」
彼はエレベーター横の案内板を見上げた。階層を示す文字列が、どこか遠い記憶のように霞む。
「鉱石からエルフエナジーを最初に発見し、それを希望へと変え……そして、災厄の種も蒔いた。その責任者としての覚悟は、とうにできている」
ヒロノゼウスは黙って耳を傾けていた。
「君の主張には、私も多くの点で賛同している。だが、物事には常に表と裏がある。長所があれば、必ず短所もある。人間というものは、短所を見ているようで、見ていない。見ないふりをして、便利なものだけを手に取ろうとする」
博士はわずかに息を吐いた。
吹き抜けの上階から落ちる風が、言葉の余韻をさらっていく。
「それでも我々は、短所と向き合い、最善を尽くす義務がある。私は何度もイーサム王に、危険な生物照射実験の中止を陳情してきた。だが……」
博士の声が低くなった。
「『犠牲の先にこそ、民の暮らしの安定がある。それが犠牲者への最大の償いだ』――陛下はそう仰った」
ヒロノゼウスは唇を結んだまま、視線を落とした。反射する床に映る自分の姿が、知らぬ間に歪んでいる。
「ならばせめて、私は“封じる術”を研究しようと思う。先ほど、リヴァン首相から時空間研究への予算が付いたと報告を受けた。神話で語られる“禁忌の赤黒い眼”――そのエネルギーの正体も、これで突き止められるかもしれない。暴走の抑制、制御、管理……可能な限り、未来を守る方向へ力を尽くしたい。ヒロノゼウス、お前もそうだろう?」
博士の言葉に、ヒロノゼウスは返答を探すように天井を仰ぐ。
「博士……私は、生命を弄ぶようなやり方には、どうしても賛同できません」
彼の声は震えていたが、瞳は静かだった。
「だから、長期休暇を取ります。少し距離を置いて、自分を冷静に保ちたいのです。最果ての西の島へこれから行きます」
ジン博士は小さく笑みを浮かべた。風が二人の間を通り抜ける。
そして、わずかに寂しげに目を細めた。
「……そうか。君なりのストライキ、というわけだな。あの島にも、バリア耐性魔物がいるかもしれない。くれぐれも油断するな。最近、どういうわけか、西の島のエルフ・バリア塔の光圧と抑制域が小さくなっている。ザルガン博士とアルディン技官に調査を進めさせているが、原因はまだ掴めていない」
「それも、特研区の連中のせいじゃないといいのですがね……」
ヒロノゼウスは肩をすくめ、研究報告書を差し出した。
「ルーフは、まだあの子の育成を続けています。……保育器の個体に、わずかな“心反応”が見られました」
ジン博士の表情が一瞬だけ硬くなる。
「……“心”を、だと?」
「はい。感情エネルギーが検知されています。人を理解する“良心”なのか……」
ヒロノゼウスは言葉を濁し、正面玄関の自動扉へと歩みを進めた。
扉が静かに開き、冷たい夜風が差し込む。振り返り、博士に一礼する。
「では、失礼します」
その背に、ジン博士は何も言わなかった。ただ、光に包まれていくその姿を、黙って見送った。
ジン博士は小さく呟いた。
「……守るべきものは、いつも遠ざかっていくな」
エントランスのガラス壁には、湖の対岸、首都リュカの夜景が無数の粒となって映り込み、揺らめく光の波紋が室内の床を淡く染めていた。
ヒロノゼウスは滑らかな流線形の推力浮遊車へと歩み寄る。
車体に触れると、微かな振動が掌に伝わった。
乗り込むと同時に制御盤が淡く点灯し、白銀のボディが音もなく浮上する。
彼は短く息を吐き、運転席越しにガラスの外を見やった。
エントランス前で佇む博士が、小さく手を上げる。
推進光が地面を照らし、車体はゆっくりと上昇する。
夜風が吹き抜け、博士の白衣の裾が揺れた。
浮遊車は夜空へ滑り出し、街の灯の海に静かに溶けていった。
ジン博士は歩を止めず、研究棟の扉へと消えてゆく。
その直後、窓の奥で、淡い赤黒の揺らぎだけがまだ呼吸していた。
一人残されたルーフは、モニターに視線を戻しながら、ぶつぶつと呟いた。
「まったく……誰があんな原始人と、付き合うものですか……」
だが、ディスプレイに映る保育器の中のモンスターに目を向けると、ふと、小さくため息を漏らした。
(……でも、彼の知見がなければ、今のこの研究も成立していない。あの頑固さも……たまに、嫌いじゃないのよね)
声には出さず、ただ瞳の奥にわずかに揺れる熱があった。
そのとき。
背後の自動扉が、音もなく開いた。
冷たい空気が一筋、ルーフの頬を撫でていく。
振り返ると、ラマズドとカリム上席研究員、マルヴィン施設長が、静かにフロアへと足を踏み入れていた。彼らが放つわずかな威圧の気配を、ルーフはまるで心地よい風にでも当たるかのように受け流した。
「あら。偉いさんたちが揃いに揃って……何のご用かしら?」
その声は凛として澄んでいた。畏れの欠片もなく、むしろ来訪者を迎える者の落ち着きを湛えている。
カリム上席研究員が一歩前へ出て口を開く。
「ルーフ主任研究員。後日、国王陛下とリヴァン首相が視察に来られる。それに先立ち、首相があなたの“人型モンスター計画”を事前に視察したいとの要請があった。これより、首相とリモートで話していただきたい」
「ふふ、私が育てている子を見たいのね。もちろん、いいわよ」
ラマズドが低く釘を刺す。
「くれぐれも、首相には失礼のないようにな」
「わかっているわ。私って、そんなに非常識に見える?」
「……やれやれ」
ラマズドは呆れたように言葉を漏らした。
マルヴィンが通信端末を開き、リヴァン首相を呼び出す。
瞬間、空間にホログラムが展開された。赤黒い光が滲み、瞳がゆっくりと焦点を結ぶ。その視線がルーフをとらえた刹那、光が鋭く走った。
(……何、この人の眼。冷たくて、気持ち悪いわね)
「あっ……」
(いけない、口に出しかけた。危ない、危ない。ラマズドの雷が落ちるところだったわ) ルーフはすぐに表情を整え、穏やかな笑みを作った。
「ようこそ、首相。私の研究室へ。こちらでは、エルフエナジーを照射した魔物の精子と、人間の卵子を交配させ、生育過程にも継続的にエネルギーを与えながら、“高度知能化人型モンスター”の研究を進めています。現在、成人個体の発生段階まで到達し、もう間もなく誕生を迎えるところです」
リヴァンは口元にかすかな笑みを浮かべた。
「ずいぶんと……立派な口調だな。王国の首相を前にしても、怯えも屈もしないとは」
ルーフはわずかに顎を上げ、唇の端を上げて返した。
「怯える理由がありませんもの。科学は、立場や肩書きよりも“結果”で語るものですわ」
リヴァンの瞳がわずかに細まり、光が鋭くなる。
「……結果、か。ならば、その“結果”を見せてもらおう」
ルーフは軽く顎を引き、指先でホログラムを操作する。
透明な光の中、保育カプセルの中で眠る人型モンスターが静かに映し出された。
ルーフはホログラムのパネルを操作し、手元の認証キーを軽く回した。
低い駆動音が床下から響き、室内の照明がひとつ、またひとつと落ちていく。
中央の保育カプセルだけが、青白い光に包まれて浮かび上がった。
半透明の培養液の中、胎児のような人型の影が静かに漂っている。
肢体は人に酷似していたが、骨格の一部がわずかに発光し、胸部では“エルフエナジー結晶”が、まるで心臓のように規則正しく脈動していた。
「ご覧ください。これが、私の研究の結晶です。モンスターの力と人間、そしてエルフエナジーの融合体。名づけて《ジャックエルフ》。
“人の意志と感情を理解し寄り添うモンスター”――
護衛にも、家事にも、育児にも対応できる“心ある存在”の新しい形です」
リヴァンは低く笑った。
「なるほど。噂に違わぬ才女だ。“人の心を持つモンスター”――実に魅力的な響きだ。民も科学も、心ある存在として互いに理解し合う。それこそが、私の理想とする新時代だ。……ただし、心が乱れれば、秩序は崩壊する。ゆえに私は、“心”すらも、秩序の一部として導いていくつもりだ」
その声は穏やかでありながら、底冷えするような支配の気配を帯びていた。
ルーフは一歩、彼に近づいた。白衣の裾が揺れ、足音が静かなフロアに響く。
「……首相。“導く”という言葉は、時に“縛る”ことと同義です。心は命の中で最も自由な領域。理解し合うということは、相手を支配することではなく、“恐れずに向き合い理解する”こと。それこそが、真の共存と平和への道だと、私は思います」
ラマズド長官が思わず息を呑み、カリム上席研究員が険しい視線を送った。
だが、ルーフの声は、微動だにせず、澄み切った響きを保っていた。
「私は、恐れや命令ではなく、“共鳴”によってこの世の命と心を結びたい。
それを可能にするのが、エルフエナジーの力です」
そのとき、ねっとりとした声が、リヴァンの意識の奥底で囁いた。
《ルーフの個体を、いずれ我が同胞として迎え入れよう。
彼女が育て、そして裏切られたとき――その悲痛すら、我が糧となる……》
リヴァンはしばし黙したのち、ゆっくりと唇を釣り上げた。
「……共鳴、か。良い言葉だ。だが、君は理想を語りすぎている。
理想は美しく、現実は残酷だ。その隔たりに、人は絶望する。
民の混乱を防ぐためには、時に“自由”を制する手が必要になる。
君の研究が、その“制御”の鍵になることを私は期待しているよ。
では、その“心と共に歩む”という理想の証を、私の目で確かめさせてもらおう」
保育器の中で、羊水がわずかに波打つ。
光の粒が液面に散り、そこに浮かぶ“彼”が、ゆっくりとまぶたを開いた。
淡い金の光が、瞳の奥に宿る。
その光は、澄み渡った祈りのように静かだった。
次の瞬間――
リヴァンの赤黒い眼がモニター越しに鋭く光を放つ。
見えぬ波動が空間を震わせ、保育器内の光と衝突した。
バチッ――!
互いの波長が弾け合い、照明が一瞬明滅する。
「ちょ、ちょっと……何!?」
ルーフの声が跳ねる。
「一瞬、感情波の揺らぎを検出しましたが……すぐに安定しました。他の数値はすべて正常域です」
リアムが報告する。
ルーフは険しい目をラマズドへ向けた。
「誰か、機材を触ったわね? 勝手なことはやめて!」
「落ち着け、ルーフ。今のは電圧低下だ。よくある話だろう」
マルヴィンが平然と応じた。
リヴァンの意識の奥で、再びあの声が囁く。
《……光はお前を拒む。ならば――闇の器へ行け。“胎”が、お前を待っている》
赤黒い渦の残像が脳裏に広がる。冷たい指が、思考の奥をなぞるように。
リヴァンはわずかに目を細め、笑みを取り戻した。
「……見事だ。これほど安定した個体は、他に類を見ない。やはり、君の研究は一見の価値がある」
ラマズドが満足げに頷く。
だが、リヴァンの心中では別の炎が燃えていた。
「光の波長……拒絶か。ならば、闇の側で“完全な同調”を得てみせよう」
「なに……あなた、何を企んでいるの?」
ルーフの声に、リヴァンの赤黒い瞳が静かに沈黙の光を宿した。
「ラマズド」
「はっ」
リヴァンが目を細める。
「例の件を、通達せよ」
ラマズドはうなずき、隣のカリムへ小さく囁く。カリム上席研究員が一歩前に出た。無機質な声が、冷たく室内に響く。
「ルーフ主任研究員。今回のリモート視察の結果を伝える。――君の研究室への補助金は、次期より打ち切りとする」
ルーフの眉がわずかに動く。
「理由は単純だ。君の個体はすでに完成段階にあり、これ以上“管理可能な成果”が見込めない。限られた予算を、特別研究区へ集中させる方針の見直しによるものだ。君のプロジェクトは、特別支援対象から外れる」
静寂が研究室に落ちた。
「そ、そんな……今さら……」
リアムが思わず声を漏らす。
ルーフはゆっくりと背を向け、保育器越しに人型モンスターを見つめた。
――遡ること五年前。
観音扉が音もなく開き、不釣り合いな足音が廊下に響く。闇の中から、ふたりの男が静かに姿を現した。王研上席研究官・カリム・ヴァルスト。そして、施設責任者・マルヴィン・ロート。
上席研究官カリム・ヴァルストは、鋭利な知性を漂わせる冷徹な眼差しの男。施設責任者マルヴィン・ロートは、年配の穏健派で、静かに研究所全体を見守る男。
「今日から帝国生物研究所からルーフ・カリーニという女性研究員が配属される。だが、いくつか気になる点がある。カリム、君の見解を聞こう」
マルヴィンが低い声で問いかけると、カリムは眉を寄せ、冷静に応じた。
「経歴を見るかぎり、彼女は遺伝子工学のスペシャリストですね。大学を首席で卒業し、帝国生物研究所でも数々の学術賞を獲得しています。知見も応用力も申し分ない。……ただし、問題は特研区に相反する“気質”です」
「ふむ、やはりそこか」
「ええ。身分関係なしに歯に着せぬ物言いで自己主張が強すぎる。所内でも衝突が絶えなかったようです。とはいえ、帝国の所長は“研究の成果において右に出る者はいない”と、強く推薦してきました」
マルヴィンはゆっくりと顎に手を添え、思案の表情を浮かべる。
「特研区に配属されれば、外部と遮断された専用の住居区に暮らす必要がある。研究と生活が一体化する分、自由は削られる。女性研究員には尚更、覚悟が要る。それでも彼女が受け入れ忠誠を誓うのなら、我々としては歓迎すべき戦力だが……」
カリムが口元に薄く笑みを浮かべた。
「もし従わなければ、彼女専用の研究室を別棟に用意する手もありますね。例えば、生物生態研究棟。異動させられたヒロノゼウスのいた場所が空いています」
「それも悪くない。あの一般研究棟は、ジン博士筆頭に我々の研究にいちゃもんを付けてくる口うるさい奴も多いが、あの場所ならルーフの個性を活かしつつ監視もできる」
マルヴィンは目を細め、声を落とす。
「予算は首相が惜しみなくつけるだろう。ルーフの研究をどこに置こうと、申請さえ出せば必ず通る。彼女の知見を一般研究区へ拡散しても、我々の同志がすぐに“接収”できる」
カリムが頷きながら続けた。
「そもそも、あの棟は帝国との戦争時に生物兵器を開発していた施設。あそこを再活用するのも自然な流れだ。先の戦争で我々の祖国が最初に微生物の遺伝子操作に成功し、それを応用して強靭な魔物を作り上げた。だが、ジン博士の“エルフ・バリア”によって、すべては光分子化されてしまう。……だからこそ、我々にはルーフが必要です。彼女こそ、この計画の“最後のワンピース”なのですから」
ふたりは静かに歩を進め、上昇するエレベーターへと乗り込んだ。
――地上階の応接室。
そこには、初めての“招かれざる才能”が、ひとり静かに彼らを待っていた。
「ようこそ、ルーフ・カリーニ研究員。私は上席研究官のカリム・ヴァルストだ。こちらは施設責任者のマルヴィン・ロート氏」
ルーフはゆっくりと椅子から立ち上がると、軽く顎を上げてふたりを見渡した。
「……ようこそ? それ、皮肉のつもり?」
彼女の目元には笑みが浮かんでいたが、声には冷えた棘が混じっていた。
「まさか、着任初日から三十分も待たされて、しかも、形式的な心がこもっていない挨拶ひとつで済まされるとは思ってなかったわ」
カリムが手を組み、あくまで冷静に応じる。
「我々も多忙でして。だが、あなたには相応の関心と敬意を払っているつもりです。経歴に記された業績は目を見張るものでした」
「経歴書の話? 面と向かって話す前に、経歴だけで判断するなんてね」
ルーフはわざとらしく肩をすくめ、机越しにふたりを見据えた。
「それに、事前に送られてきた守秘義務契約――あれ、読んだわ。内容の半分は研究じゃなくて、私生活の制限よ。生活の自由まで縛るなんて、ちょっと時代錯誤じゃない? 私は口の軽い人間じゃないわ。そう思われているなら、それも心外ね」
一呼吸おいて、ふっと鼻で笑う。
「まあ、いいわ。特別研究区の配属が白紙なら、むしろ歓迎。私にはあの閉鎖的に映る空間より、自由に動ける場所のほうが性に合っているわ。一般研究区画で、のびのびと成果を出させてもらうつもりよ」
そして、言葉に芯を込めた。
「先に言っておくけど、私は、言われた通りに動くだけの人形じゃないの」
ルーフの言葉が静かな会議室の空気を切り裂いた。会議室は一瞬で凍り付き、カリム・ヴァルストは眉をわずかにひそめたが、すぐに冷静な表情に戻った。
「なるほど。噂通り、歯に衣着せぬ方のようだ」
彼は手元の資料をそっと閉じると、背もたれにゆっくりと寄りかかった。
「ただ、誤解しないでくれ。我々も君を“従順な人形”に仕立てるつもりはない。だが、この特別研究区域では、互いの敬意と職務に対する節度が不可欠だ。自由と統制は、常に背中合わせに存在している。もし君が真に理想の研究成果を求めるのなら、ある程度の私的な自由を犠牲にせねばならないこともある。それを理解してほしい」
その隣で、マルヴィン・ロートは長いため息をついた。
「やれやれ……まったく最近の若い者は、肝が据わっているというか、強情というか……」
彼は苦笑しつつも、どこか感心したように目を細める。
「だが、あの特別区には確かに合わんだろう。お前さんの“自由”を保障する意味でも、一般研究区に部屋を用意するのは妥当だ。好きなようにやってみなさい。ただし、結果は求められるぞ、ルーフ研究員」
その言葉に、ルーフは満足げに片眉を上げ、微笑んだ。
「もちろんですわ。私の遺伝子工学は、芸術と呼ぶにふさわしい領域に達していると自負しています」
彼女は椅子から立ち上がり、一歩前に出ると、言葉に熱を込めて続けた。
「私は様々な生物種の遺伝子と人間の遺伝子を融合させ、その変異体にエルフエナジーを照射することで、“新たな存在”を育てあげるつもりです。強靭で、美しく、そして用途に応じた機能を持つ人型モンスターを、まるで生命を設計するように。ここでその夢を実現させたいの。だから、どうか見届けてください。私の研究が、未来の扉を開く鍵になることを自負しています」
カリム・ヴァルストは一瞬だけ驚いたように目を細めたが、すぐに口元に薄く笑みを浮かべ、感嘆の色を隠さず口を開いた。
「まるで研究室というより、芸術を見ているような迫力ですね、ルーフ研究員。あなたの研究に懸ける情熱と、その先にある“ビジョン”は、よく伝わりました。生物生態研究棟への専用ラボの設置については、前向きに検討しましょう。
ただし、その“芸術”が国家という枠を飛び越えて暴走しないよう、相応の管理体制は設けさせていただきます。もちろん、それも覚悟のうちでしょう?」
その言葉にルーフはふっと笑みを浮かべ、手に持った案内図の上に迷いなく人差し指を滑らせた。
「当然よ。この地下20階の一般研究区生物生態研究棟――ここに、私のためのラボを一室。静かで集中できる場所がいいわ。遺伝子とエルフエナジーが語り合うには、繊細な空間が必要なの」
上席研究官カリム・ヴァルストは、ひとつ大きく息を吐いてから、静かに言った。
「……なるほど。ルーフ研究員、あなたの発想力、行動力、そして強い自我は、確かに特別研究区のような閉鎖的な環境では活かしきれないだろう。組織の均衡より、研究という名の自由を重んじるあなたには、制約の少ない一般研究区のほうが、むしろ適しているかもしれない」
隣にいたマルヴィン・ロート責任者も頷きながら付け加える。
「強烈な個性が時に衝突を生むのは承知の上です。ですが、それが新たな視点を呼び込むこともある。我々としても、あなたの力を完全に否定するつもりはありません。生物生態研究棟に、あなたの専用ラボを設置しましょう。十分な機材も、予算も用意します。ただし、今後の研究成果は王研に属する知的財産として取り扱います。それは承諾いただけますね?」
ルーフは一瞬黙ってから、目を細めて笑った。
「もちろん。結果で黙らせてみせるわ。私の研究は、“境界”を超えるのだから」
「期待しているよ、ルーフ。これより決裁伺い書類を作成する」
マルヴェインがホログラムPCを立ち上げた。
《国家研究機関 王立科学アカデミー研究所 言語認知高度知性強化型家政婦モンスター育成計画書:第1》
起案・決裁伺い書
起案者:
国家研究機関 王立科学アカデミー研究所
施設責任者 マルヴィン・ロート
特別研究区/ゲノム工学モンスター育成研究室
上席研究官 カリム・ヴァルスト
表題:ルーフ・カリーニ研究室
「言語認知高度知性強化人型モンスター」の研究に関する特別予算計上伺い
彼女は、マルヴィンが起案決裁書類を作成するキーボードを打つ音をただ無心に聞いていた。その音が、自らの未来を封じていく音であることを、その時の彼女はまだ知る由もなかった。ほどなくして裁可が下り、ルーフは潤沢な資金の下、ジン博士が管轄する一般研究生物生態研究棟で研究を始めた。
そして今、冷たい現実だけが残った。
「つまり、私の“芸術”は、もう不要というわけね」
カリムは表情を崩さずに続けた。
「成果は一定の評価を得ている。だが、我々にはもう“予測不能な成功”に投資する余裕はない」
施設責任者マルヴィンが、言葉を選ぶように付け加える。
「一般研究棟での継続使用は認める。ただし独立予算は打ち切りだ。もし続けるなら、“扱いやすい成果”を出してもらおう」
ルーフは小さく息を吐いた。
(はいはい、出ました。“扱いやすい成果”。……まさか、ヒロノゼウスの忠告が当たるなんてね)
(ふふ……帰ってきたら、あの人、得意げに笑うんでしょうね)
保育器の泡がぷかりと浮かぶ。ルーフはそれを見つめ、口角をわずかに上げた。
「なるほど。“管理しやすい平凡さ”を選んだのね。研究も国家も、結局“思考停止の安定”しか望まない……」
「でも私は諦めない。補助金が切られようと、“実用性が乏しい”と切り捨てられようと、私は基礎研究をやめない。この子は私のすべてよ。エルフエナジーと生体の相互作用を正しく理解しなければ、応用技術なんて永遠に机上の空論。いま誰も見向きもしない《基礎の一歩》こそが、この国を変える“真の進化”の鍵になる。私は、それを……信じているの」
指先が、保育器のガラスをそっと撫でた。その触れ方は、まるで子に触れる母のようだった。
リヴァンは微動だにせず、冷ややかに笑みを浮かべた。
「信じるのは自由だ。だが、理想を語る研究者ほど、現実の重みに潰れる。予算も、時間も、政治も、世論も。世界の“利益”が、お前の基礎研究を待ってはくれない。
君が“その子”に未来を託すというのなら、その結末もまた、自ら背負うことだ」
通信が切れ、ホログラムが消える。この部屋に漂っていた赤黒い光が、跡形もなく消え去った。
ラマズドは腕を組み、保育器を見下ろしたまま、ゆっくりと言う。
「君が築く未来が、我々の創る国家より優れているか……楽しみにしていよう。もっとも、その時“国”が残っていれば、の話だが。才能と狂気は紙一重……。君の研究が、その境界を越えないことを祈っているよ、ルーフ主任研究員」
カリムは一瞬だけ微笑し、冷たい声を残す。
「もしこの子が本当に“世界を変える鍵”なら、それが扉を開くのかそれとも崩壊を招くのか。答えは、すぐに分かるだろう」
二人は背を向け、電子扉が音もなく閉まる。支配者たちの気配が消え、室内には再び機械の駆動音だけが残った。ルーフはしばらく無言のまま、水泡の上がる保育器を見つめていた。やがて、ぽつりと呟く。
「さて――。面白くなってきたわね」
彼女は小さく息を吐き、唇の端を上げた。そのとき、背後の自動扉が開いた。
「ルーフ」
振り返ると、ジン博士が立っていた。白衣の裾を揺らしながら、穏やかな眼差しを向ける。
「ヒロノゼウスは西の島へ向かったぞ。しばらく戻らぬそうだ。……ところで、ラマズドとカリムとすれ違ったが、何かあったのか?」
「私の研究に、予算を付けないと宣告しに来ました。リヴァン首相がリモートで、私の育てている《ジャック=エルエルフ》を視察したのです。そのときの首相の眼……不気味に赤黒くて、普通の人間の青い虹彩ではありませんでした。あの眼が揺らいだ瞬間、ジャックが――まるで怯えたように反応したのです」
「……赤黒い眼、か」
「その“赤黒い眼”って、何かあるのですか?」
ジン博士はしばし黙考し、ゆっくりと口を開いた。
「ああ……。エルフエナジーについては君も知っているだろう。それは、“光の鉱石”と“影の鉱石”が融合した結晶だ。エルフ鉱石は、この星が誕生した際に地殻に封じられた、いわば“光”の記憶。だが同時に、その対となる“影の鉱石”も存在した。瞳のような模様を宿す黒い溶岩石。そこから放たれる波動を、人々は“マグマの眼”と呼び、後にこう名づけた。――《赤黒い眼》。それは、怒り・悲しみ・憎しみといった、人の負の感情を糧に自己増殖する、“実体なき意識体”だ」
ルーフは息を呑んだ。
「実体のない……モンスター、ですか?」
「そうだ。目には見えぬが、確かに存在する。時空を越えて漂い、人の心の闇に寄生する。波長が一致した瞬間、その意識に入り込み、理性を少しずつ侵食してゆく。そして、幻聴、幻視、異常な知覚の高揚……。やがて力を求め、他を支配しようとする衝動が生まれる。“赤黒い眼”は、そうして宿主を通して世界に干渉するのだ」
博士の声は、まるで遠い記憶を掘り起こすように静かだった。
「詳しい文献は、リヴァン政権下で禁書指定された。“科学的根拠がない”として恐怖を煽ると判断されたが……私は当時、要点をノートに写しておいた。……リヴァンの行動は、第一次政権の頃とは明らかに違う。あの目を見るたび、私は思うのだ。彼は、“赤黒い眼”と契約したのではないか、と」
ルーフは小さく首を振った。
「寓話だと思っていました……」
「寓話ではない、ルーフ。《赤黒い眼》は“力を拡散させる波動石”。一方、エルフ鉱石は“光の石”――時空間と自然の秩序を操る量子の結晶。エルフ鉱石は、量子力学でいう“フォトン”に近い。この二つ――“光と闇”を融合させたものこそが、我々が“エルフエナジー”と呼ぶものだ。このイーサム王国の山脈で豊富に採掘されるからこそ、それは長く王族の争いの種にもなった」
「それが……この文明を支えてきた原動力、というわけですね」
「そうだ。エルフエナジーがあったからこそ、浮遊車も、アクアゲートも、人工太陽も、そしてモンスターまでもが生まれた。帝国が先んじて発展したのも、“赤黒い眼”の鉱脈――あの“影のエネルギー”を豊富に抱えていたからだ」
博士はモニターを見た。夜空をたなびくエルフ・バリアが、虹のように揺らめいている。
「エルフ・バリアは、正式学名ライト・イエロー・エナジーストーン。通称“神石”と呼ばれる高純度の光鉱石によって稼働している。この神石は、“影の鉱石”を起源とするモンスターの粒子構造を分解し、光へ還元する特殊な波動を持つ。さらに特徴的なのは、石そのものが微細な“共鳴音波”を発し、その波圧によって光の防壁、エルフ・バリアを形成している点だ。この音波は単なる周波数ではない。対象の“殺意”や“敵意”といったエネルギー変動を検知すると、自律的に光圧を増幅し、自衛反応を起こす。つまり神石は、この国を護る“生命の盾”といっても過言ではない。
……だが最近、その共鳴音波の力価が異様な速度で減衰している。
原因はまだ特定できていない。ザルガン博士とアルディン技官が、西の島のバリア塔で調査と安定化のための強化実験を続けているところだ」
博士は息を吐き、静かに言葉を継いだ。
「だからこそ、私はヒロノゼウスと君の対立を理解している。エルフエナジー照射実験は、確かに危険だ。だが、君の研究には、他の誰にもない“信念”がある。愛情と共鳴。その波動が、エルフ鉱石のフォトンを正しく導くなら……赤黒い眼の力すら、光へ転じるかもしれない。私は、それに賭けているのだよ。ルーフ」
「私の研究を……温かい目で見守ってくださったのですね。博士、ありがとうございます」
博士は静かに頷き、視線を保育器の中で脈動するジャック=エルフへと向けた。
青白い光に照らされたその影はまだ幼いが、確かに“何か”を宿しているように見えた。
「……さあ、夜も遅い。ルーフ、もう休みなさい」
「はい、博士」
ルーフは保育器の最終チェックを終えると、そっと掌を照明パネルにかざした。
研究室の灯りがひとつ、またひとつ落ちていき、最後に残ったジャック=エルフのカプセルだけが柔らかな残光をまとって浮かび上がった。
「リアム、後はお願いね」
「お任せください。今夜も安定していますから」
ルーフは安心したように微笑み、研究室の扉を出る。
扉の向こう、地下20階の吹き抜けは穏やかな光に満ちていた。中央の噴水が静かに水音を奏で、水生植物と白いタイルに反射した光が、夜の研究棟に柔らかい気配を広げている。
「博士、お先に失礼します」
渚のアデリーヌのような、柔らかなピアノの旋律に、ルーフの声は静かに溶けていった。博士は手を軽く振り、ルーフが光の回廊の角を曲がるまで見送った。
その背が完全に消えたあと、博士はふっと表情を引き締める。
隣接する管理室のオペレーションパネルに手をかざし、屋外観測モニターを起動した。湖の対岸に広がる王都リュカの夜景と、その上空で脈動する虹色のエルフ・バリアが映し出される。だが、その光の一瞬、博士の目には“赤黒い揺らぎ”が走ったように見えた。
「……む?」
身を寄せて画面を覗き込む。しかし、揺らぎはすぐに消え、ログには「微弱な外風」の記録が残されているだけ。
(……気のせいか? だが、この胸騒ぎは……)
博士はモニターを閉じ、もう一度だけ対岸の光へと目を向けた。虹色の光は美しい。けれど、どこか、不自然に張りつめていた。まるで世界そのものが、この先に迫る“変質”の瞬間を息をひそめて待っているかのように。博士は白衣の裾を整え、静かに自室へ歩き出した。吹き抜けを渡った微風が、かすかな囁きのように背を押した。
地下20階の噴水だけが、静けさの中で淡く響き続けていた。
コメント
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うわあああ第39話、重くて美しくて切なくて一気に引き込まれたよ〜〜😭💕 ヒロノゼウスがルーフの昔の手紙を胸ポケットに仕舞う仕草、科学者としての誇りとルーフへの複雑な想いがひしひし伝わってきてもう…!!! ルーフの「自由より支配だ」って首相に真正面から啖呵切るところ、マジでかっこよすぎて鳥肌立ったよ🕊️🔥 そしてセブンのエピソードが胸に刺さる…「進化」と「支配」の境界線ってどこにあるんだろう。保育器の中で光が宿る瞬間、次の展開が待ちきれないよ…!!