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その日の午後、ベジラは宿泊客の前でいつも以上に華やかに笑っていた。新しい台詞も、少し首を傾げる角度も、全部練習してきた通りだ。けれど拍手は薄い。歓声が続かない。誰かの胸に残る前に、言葉だけが床へ落ちていく。
「アメイジング、でしょ?」
甘く言ってみても、返ってくるのは礼儀の笑顔だけだった。むしろ給仕の途中で一言添えたディアビレの方へ、客の視線がなめらかに流れていく。
ベジラはそのたび唇の端をひきつらせた。自分の方が明るい。衣装だって華やかだ。ちゃんと前に出ている。それなのに、どうして場が温まるのはあちらなのか。
夜、控室に戻ったベジラは、苛立った手つきで手袋を投げた。鏡の中の自分は十分に綺麗だ。綺麗なのに、空っぽに見える瞬間がある。
ふと、衣装棚の脇に見慣れた小さなノートが置かれているのに気づいた。ディアビレのものだ。おそらく配膳の合間に置き忘れたのだろう。
開いてはいけないと思うより先に、指が動いていた。
そこには、短い言葉がいくつも並んでいた。
『海は広いから慰めるんじゃなく、黙って立っていてくれるから好き』
『眠れない人には、正しい言葉より湯気の方が効く夜がある』
『笑うのが上手な人ほど、帰り道は少し静かだ』
ベジラはページをめくるたび、胸の中の何かが冷えていくのを感じた。自分はこんなふうに、誰かの一歩手前の気持ちを見たことがあっただろうか。
廊下から足音がして、慌ててノートを閉じる。けれど閉じても、残ったものまでは消えなかった。
言葉の差ではない。見ているものの深さが違う。その事実が、初めてきちんと痛かった。
#海辺の町