テラーノベル
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ロバートとの時間は、戦後の焦土に咲いた一輪の野花のような、静かな救いだった。 彼は私に、新しい世界の言葉を教え、チョコレートを分け与え、そして何より「未来」という布を織る楽しさを思い出させてくれた。
「Yui, come with me to America.(結、一緒にアメリカへ来ないか)」
横浜の港、遠くに見える客船。 そこは、航くんがかつて憧れ、そして散っていった「遠い空の下」へと続く場所。 私は、ポケットの中で小さくなった、あの手芸部の交換日記のノートを握りしめた。
「……はい。行きます、ロバート」
それは、過去を断ち切るための、精一杯の背伸びだった。 航くんは帰ってこない。私の「縦の糸」は、あの夏の空に溶けてしまったのだと、自分に言い聞かせ続けてきたから。
出発の朝。私は最後に一度だけ、あの懐かしい高校の跡地を訪れた。 今は雑草に覆われた、かつての部室があった場所。
「……誰?」
そこには、ボロボロの復員服を纏い、片方の袖を空に向けた男の背中があった。 彼は、私がかつて修復した「紺色の糸の跡」がある、あの制服を着ていた。
「……航、くん……?」
震える声で呼ぶと、男がゆっくりと振り返った。 その頬には深い傷跡があり、かつての精悍な面影は削ぎ落とされていた。けれど、その瞳だけは、あの日と同じ、哀しいほどに澄んだ空の色をしていた。
「結……か。……生きていたんだな」
「どこにいたの」「遠い空の下」
その言葉が、今、残酷な現実として突きつけられる。 彼は生きていた。地獄のような戦地を、私の名前だけを糸口にして、這いずるようにして帰ってきたのだ。
「私……私、今日、発つの。アメリカへ。ロバートという人と……」
航くんは、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに寂しげに微笑んだ。 そして、残った左手で、私の足元に落ちていた、枯れ草の「ささくれ」を拾い上げた。
「そうか。……いいんだ、結。俺はもう、真っ直ぐな糸じゃない。折れて、汚れて……君が織る綺麗な布には、相応しくないんだよ」
「なぜ 生きてゆくのかを 迷った日の跡のささくれ」
彼の言葉の一つひとつが、私の胸を鋭く切り裂く。 港では、ロバートが待っている。 けれど、私の魂は、このボロボロになった「縦の糸」に、強く、強く引き寄せられていた。
「航くん、私は……!」
遠くで、船の汽笛が鳴り響いた。 それは、新しい人生への合図か、それとも永遠の別れの鐘か。
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