第一章 月白の邂逅
霧は山あいの峠を覆い、薄明かりの月光を柔らかく散らしていた。ひとりの少女が、木の根に注意しながら静かに歩を進める。
名は 綺羅(きら)。
青磁の瞳は深く澄み、霧の向こうの世界を冷静に見渡す。
彼女の歩幅は小さいが、着物の裾を押さえた手には唐渡りの短剣が握られていた。
この道は、昔から「月白の杜(げっぱくのもり)」へ通じるとされ、旅人の中でも訪れる者は少ない。
綺羅は、里人の噂や怪異譚を求め、こうして人里離れた山路を歩き続けた。
その胸には、解き明かすべき事件と、“真実を知りたい”という強い好奇心があった。
月が空高く昇り、湖を銀に照らす。
湖面は静まり、霧に覆われるその姿は、まるで異界の鏡のようだった。
綺羅は足を止め、湖のほとりに立った。
その中心に、ひとりの男が立っていた。
白衣をまとい、長い月光をも反射するほどの輝きを持つ黒髪が夜風に揺れる。
その肌は雪のように白く、整った顔立ちは神のような威厳を放っていた。
湖の光をそのまま身に纏ったかのような彼の姿に、綺羅は一瞬息をのんだ。
「……あなたは、神ですか、人ですか?」
少女の声は静かだが、霧を切るように明瞭であった。
男は微笑み、指先で湖面をそっと撫でた。
水面に波紋が広がり、光が淡く揺れる。
「人とも神とも、言うべきか迷う存在だ。だが、名前は**皓(こう)**と呼んでくれ。」
その声には、誰もが心を許してしまいそうな優しさと、どこか人を試すような色気が混ざっていた。
綺羅は眉をひそめ、鋭い視線を彼に向ける。
「この湖で、何をしているのですか?」
「遊んでいるのだ。世界の理を、そして君の心を、少しだけ。」
その瞳は静かに輝き、まるで彼自身が夜の月光を操るかのようであった。
少女は短く息を吐き、口を開く。
「私の心を弄ぶつもりなら、許しません。」
皓は楽しそうに笑った。
「面白い。久しぶりに、頭の回る者に会えた」
その笑みには、知的な好奇心をくすぐる何かがあった。
綺羅は心を引き締める。神のような美貌に惑わされることなく、理性で立ち向かわねばならなかった。
風が止み、月光だけが二人を照らす。
湖面には、二人の影が重なり、時折波紋が光となって踊る。
「あなたは、なぜ人々の前に姿を現すのですか?」
「私は観る者だ。人の心を、そして世界の理を。」
「それだけでは――」
「それだけでは面白くないから、君に会ったのだ」
綺羅の胸に、微かに疼く感情が芽生えた。
興味と、恐れと、何か甘く危ういもの。
彼女は自覚しつつも、声には出さなかった。
「綺羅、君は面白い」
皓はそう言い、湖面の光を指先で操る。
小さな波紋が花の形を描き、水面を揺らす。
「恐れず、疑い、そして観察する。多くの者はただ、私を信じるだけだからね」
少女は目を細める。
「信じることは簡単です。でも、それが真実ではないことも多い」
皓は小さく笑い、湖面の光を一度だけ指で撫でた。
「いいね。その推理心、私は楽しもう」
言葉のひとつひとつが、空気に溶け込み、霧の向こうまで届くようだった。
夜が更け、霧が深まると、湖はより静かに、より神秘的な姿を見せる。
綺羅は月光の下で、自分の心を整理する。
この旅は、ただの怪異解決ではなく、自分の内面、そして皓という存在に向き合う試練でもある。
そして、夜明け前。
皓は湖の中心で微笑むと、霧に溶けるように姿を消した。
残されたのは、湖面に残る小さな波紋と、一枚の白い羽だけ。
綺羅はその羽を手に取り、そっと胸に当てた。
「……また、会う気がする」
心の奥で、微かに疼く感情を感じながら、少女は霧の道を歩き出す。
月は沈み、霧がゆっくりと流れる。
少女の影が長く伸び、湖面に映った。
そしてその影の先に、すでに次の怪異の気配が忍び寄っていた。







