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霧を抜け、綺羅は南へと歩を進めた。
山々が徐々に低くなり、湖が見えてきたころ、遠くに小さな集落が浮かぶように現れた。
水面に映る家々は、まるで天空の都が地上に落ちたかのように静かで、風が運ぶ水の匂いが心地よい。
「水影(みかげ)の里……」
綺羅はそっと呟き、木の橋を渡った。
橋のたもとには、子どもたちが水遊びをしており、年老いた漁師が笑いながら網を打っている。
日常の穏やかさに、一瞬心が和んだが、少女の鋭い目は、すぐに異変を察した。
湖面が、夜ごと不思議な光を放つらしい。
村人たちはそれを“影の神”の仕業と恐れ、湖に近づく者は誰もいなかった。
しかも、その夜に限って、人や家畜が忽然と消えるという。
村長の小さな家を訪れると、老婆が震えながら言った。
「旅人よ……娘が……昨夜、湖に……」
綺羅は黙って頷くと、地図を広げ、湖の形と光の反射を思考の中で整理した。
「なるほど……影の神、ですか」
その夜、綺羅は湖のほとりに座り、湖面に映る月を見つめた。
波紋のひとつひとつが、不規則に揺れる。
「……ただの自然現象ではない。誰か、何かが意図している」
すると、湖面に淡い光が揺らめき、やがて人影が現れた。
背筋に寒気が走る。
「……皓?」
声に出すと、男は微笑み、湖の上にすっと立つ。
「また会うとは、縁だな、綺羅」
その瞳には、以前よりも深い遊び心と、ほんのわずかな警告が宿る。
「何をしているのですか、ここで?」
「君がどのように事件を解くか、見たくてな」
皓は淡い光を手で撫で、湖の波紋を小さな渦に変えた。
「影は、村人の願いや恐れを映すものだ。だが、単純な神の怒りではない」
綺羅は唇を噛み、目を細める。
「……人の心か」
彼女は紙と墨を取り出し、湖面に現れた光の動きと、村人の証言を図式化した。
「ここは……湖の北側から光が強くなる。誰かが意図的に“影”を操作している」
皓は後ろに立ち、微かに笑った。
「さすがだ。君の推理力は、夜の月のように澄んでいる」
夜が更け、湖面に薄霧が漂う中、綺羅は決意する。
「今夜、真実を暴く」
少女は湖に沿って歩き、岸辺の草を踏みしめた。
その瞬間、水面が大きく揺れ、青白い光が湖面を走る。
湖の中から、影のような人影が立ち上がる。
「……これが影の神?」
綺羅は短剣を握り、心を落ち着ける。
「理で解く。恐怖に流されるな」
湖の影は、人の形を取り、動く。
だが、綺羅は動じなかった。
彼女は皓の影を横目で確認する。男はただ湖面を見つめ、時折指先で光を操る。
「助け舟は不要だ。自分の力で解くのだろう、綺羅」
その言葉は、励ましであり、挑発でもあった。
少女は息を整え、推理の全てを心の中で展開する。
湖の光は村人の恐れや願いが映り込み、波紋として現れていた。
「……これは、人々の心の影だ。影に囚われた者を解放する」
短剣を湖に投じることなく、綺羅は声をかけ、手を差し伸べた。
「ここにいるのは、あなた自身の意思だ。恐れる必要はない」
影は揺らぎ、やがて湖面に消えていった。
波紋が静まり、霧が柔らかく流れる。
村人たちは次々と現れ、無事であることを確認すると、涙を流して感謝した。
皓は微笑み、湖のほとりに立つ綺羅に近づく。
「素晴らしい。理だけで、影を鎮めるとは」
その声に、綺羅は少し顔をしかめる。
心の奥に、甘い期待と、小さな苛立ちがあった。
夜が明け、月光が霧を溶かす頃、綺羅は湖を後にし、村を見下ろした。
「まだ、旅は続く……」
そして、皓の微笑みが瞼の裏に残り、少女は少しだけ未来を怖れながらも歩き出した。