カフェを出ると、モワッとした湿度の高い夏の生暖かい空気が纏わりついてくる。
「夜になっても暑いな」
「ほんと、湿度が高いですね」
そんな会話をしながら二人は肩を並べて歩き始めた。
夜空には満月に近い月が煌々と輝いている。
その月明かりは二人の足元を明るく照らしていた。
通りを行き交う車の数も、昼間よりだいぶ少なくなっている。
時折遠くから聞こえてくるクラクションの音が、ここが大都会東京の真っ只中である事を教えてくれた。
昼はせわしなく歩いている人達が、夜は心なしかゆったりとした足取りに変わる。
都会の夜は昼間とは全く違う表情を見せてくれる。
理紗子はそんな東京の夜が好きだった。
数分歩くと理紗子のマンションに着いた。
そこで健吾が思い出したように言った。
「一つ言い忘れていたよ。早速九月の終わりにあるパーティーの招待状が来ているんだ。出来ればそれに一緒に出席してもらえ
ると助かる」
「わかりました。九月のいつでしょうか?」
「九月の一番最後の日曜日だ」
「予定空けておきますね」
理紗子は微笑んで言った。
「君が小説のネタ探しで行きたい場所、体験してみたい事なんかがあったらいつでも遠慮なく言って下さい。お互いの都合が合
う日に行きましょう」
「はい、ありがとうございます」
理紗子はそう返事をしたが、内心ではまだどんな人かよく知らない健吾に対し、
どこどこへ行きたいなどと気安く言える訳ないと思っていた。
だから実質的な『偽装恋人』としての任務は、九月末のパーティーが最初になるだろう。
だからそれまでは健吾に会う機会はないと思っていた。
『偽装恋人』を引き受ける事によって、理紗子の生活が急激に変化するような錯覚に陥っていたが、
実際は今までとなんら変わりはないのだ。
そう思うと、いささか拍子抜けな気分だ。
そして気負い過ぎていた自分が可笑しくなる。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
二人は挨拶を交わすと、それぞれの家へ戻って行った。
自宅マンションに戻った健吾は、思わず鼻歌を歌っていた。
理紗子のOKの返事を聞き、心が浮足立っている自分がいる。
『疑似』ではあるが、理紗子と恋人関係になれる。
もちろん健吾は『疑似』だけで終わらせるつもりなどない。
その為には、『疑似』から『本物』へと移行出来るように綿密な計画を立てる必要がある…….そう思っていた。
そして九月の投資仲間が集まるパーティーに理紗子を連れて行けるのでさらにご満悦だ。
これで漸く煩い女連中を蹴散らす事が出来る。
しかしその日まではまだ一ヶ月以上もある。
それまでの間、なんとか理紗子の好む恋愛傾向を調べ、パーティーまでに少しでも距離を縮めておきたいと思っている。
とにかく今すぐにやるべき事は彼女の理想の恋愛傾向を調べる事、それが必須だ。
健吾はポケットからスマホを出すと、電話をかけ始めた。
呼び出し音が五回鳴った後、女性が電話に出た。
「もしもしお兄ちゃん? どうしたの? こんな時間に」
「遅くに悪い。ちょっと頼みたい事があるんだ。お前さ、水野リサの漫画と小説全部持ってたよな?」
「うん、持っているけれど何? 急に?」
「それ、全部俺に貸してくれ!」
「えっ? 嘘! お兄ちゃんが…….まさか…読むの? どうして?」
「まあちょっとな…….」
「なんで急に? 今まで恋愛小説なんて読んだ事がないくせに! でもダメだよ。理紗子先生の小説や漫画はお宝だし永久保存
版なので貸せませーん!」
「そこをなんとか頼む! どの本屋に行ってもネットで探しまくっても全部売り切れ中で入手困難なんだよ」
「信じられない! 買おうとしたの? 本当にお兄ちゃんが読むの?」
「ああ、そうだよ悪いか! 貸してくれたら水野先生の自筆サインを貰ってやるから」
健吾は少し卑怯な手を使うことにした。
「えっ? 本当に? でもお兄ちゃんがなんでリサ先生のサインを貰えるの?」
「まあちょっと…….な」
健吾は『サイン』というワードにすぐに反応した妹の様子にニヤリとした。
「あ! 確かリサ先生ってお兄ちゃんのカフェのファンだもんね! それで何か接触があるのね! そういう事なら…うん、わ
かった。じゃあ明日持って行くよ。明日ちょうど恵比寿で友達とランチの約束があるからその前に持って行く。だから午前中は
家にいてよ!」
健吾の妹・真麻は現在32歳。三年前に結婚して今は健吾と同じ品川区のマンションに住んでいた。
「ああ、わかった」
「じゃあ明日ね!」
そこで電話を終えた。
真麻は電話を切ると、傍にいた夫の浩二に言った。
「お兄ちゃんが変なのよ…水野リサ先生の恋愛小説を読むって」
「えっ? お義兄さんが? 急にどうして?」
「私にもわからないわ。ほんとどうしちゃったんだろう?」
真麻は夫の顔を見ると、何がなんだかわからないという顔をした。
それを見た浩二は、
「何か心境の変化でもあったのかもしれないね。もしかして好きな人が出来たとか?」
「……! それ、あるかも!」
「だよね。僕はなんかそうピンと来たよ」
「浩ちゃんさすが! 明日、しっかりと偵察して来るわ」
真麻はそう言うとにんまりと笑った。
一方健吾はスマホを机の上に置くと、窓辺へ行き外の景色を眺めた。
一面ガラス張りの窓の外には、煌びやかな都会の夜景が輝いている。
今まで普通に眺めていた景色が、今夜はなんだか違って見えるから不思議だ。
健吾は理紗子の事を深く知る為に、まずは彼女が執筆した恋愛小説を全部読んでみようと思った。
読めば彼女が理想とする恋愛の傾向を知る事が出来るかもしれない。
健吾は久しぶりに感じる胸の高鳴りに戸惑いつつ、しばらくの間外の夜景をじっと見続けていた。
コメント
4件
真麻ちゃん、浩二さん、ハイ正解です❣️👍️♥️ でも そのお相手がリサ先生ご本人と知ったら....、ビックリだろうなぁ~♥️🤭
本物の恋が芽生えると良いですね。続き楽しみに待ってます!
健吾さん、持つべきものは理沙ちゃんのファンの妹でしたね👍それに2年思い続けた理沙ちゃんの動向をしっかりリサーチしてなんて✨さすがトレーダー😊🫰