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翌朝も、離れの机の真ん中には「み」の札が伏せたまま置かれていた。
美恵が帳場から持ってきた温かいお茶を並べ、享佑が無言でプリンを人数分きっちり置く。気を遣っているのに、誰もそれを口にしない。
「食べないなら下げる」
享佑が言うと、義海があわてて一つ持ち上げた。
「食べる食べる。食べるけど、今この空気でプリンの甘さだけ元気なの怖い」
「プリンに謝れ」
少しだけ笑いが起きる。けれど長くは続かない。
啓介は紙を前にしても、言葉が出てこなかった。
命に終わるまで。
その続きを考えようとするたび、頭の中で芽生の「ずっとここにいられない」が引っかかる。
芽生も何か言いたげに視線を動かすが、結局、記録の束に目を落とした。
重い空気を破ったのは昇万だった。古本を抱えて入ってくるなり、机の端へどさりと積む。
「こういう時はな、昔の紙に聞くんだよ」
「また急にそれっぽいこと言う」
蓮都が半分呆れ、半分期待する。
昇万は一冊の古い詩集を開いた。背表紙はほつれ、紙は潮を吸ったみたいに波打っている。
「さっき店の奥から出てきた。海鳴り寺の蔵にあった本の払い下げだ」
頁のあいだに、細い紙片がはさまっていた。
走り書きの文字は薄く、けれど「み」の横に続く一文だけが、まだはっきり読める。
芽生が身を乗り出す。
「……これ」
啓介も読む。
そこには、誰かが迷いながら書き直した跡と一緒に、短い文が残っていた。
『終わるまで、じゃなく、生きてるあいだ』
離れの中がしんと静まる。
義海が小さく息をのんだ。
「なんか今、札の向こうから返事きたみたい」
芽生がその紙片を両手でそっと持ち上げる。
さっきまで止まっていた空気が、少しだけ動いた。
埋まらなかった札に、ようやく別の呼吸が差し込んだ。
#海辺の町