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「許すだなんて、恐れ多いです。酔ってはいましたが、全く記憶がないわけではありません。私が……その、誘うような……ことを言ったのも、憶えています」
椿が、スカートをキュッと握り締め、頬を赤らめて肩を竦める。
他の女がそんな仕草をしてみても、何とも思わない。それどころか、男受けを狙っているのではとすら思う。
ところがだ。
こと、椿に関してだけは、あっさりと気持ちを鷲掴みにされてしまう。
なんなら、狙ってくれて全然かまわない。
「俺が君を好きだと言ったことも憶えてる?」
「……」
椿が小さく頷く。
あーーーっ! もうっ!!
可愛いーーーーーっっっ!!
顔面崩壊してしまわないように澄ましているのがやっと。
心臓のドッドッドッという、重低音が脳に響く。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
「きみも俺を好きだと言ってくれたことは、酔った弾み?」
「…………っ」
椿が小さく、けれど勢いよく首を振る。
それを見て、ホッとした。
本当に、ホッとした。
「きみのことが、本当に好きだ。自分でも驚くほど、好きで堪らない」
椿の唇が小さく震え、顔は首や耳まで真っ赤。
俺の言葉にそれほど反応してくれることが嬉しい。
俺は立ち上がり、彼女の足元に膝をつくと、彼女の手を握った。
「俺の恋人になって欲しい」
映画やドラマなら、ここで主題歌が流れ出すだろう。
二人は見つめ合い、ヒロインが満面の笑みで頷き、男に抱きつく。
そんなことを想像し、そうされたいと思ってしまう自分が気持ち悪くもあるが、反面、椿に王道が通用しないだろうことも覚悟していた。
椅子から転げ落ちて、『勿体ないお言葉です!』とか言いそう……。
自分の想像に、思わず身構える。
いつでも彼女を抱きとめられるように。
だが、椿の答えは、俺の予想を裏切った。
「ごめん……なさい」
え……?
「彪さんの恋人にはなれません」
今朝、椿が自分の耳を疑って呼吸音すら止めてしまった気持がわかった。
俺の場合は、呼吸も忘れるほどショックを受けた、だが。
「理由……を聞いてもいいかな」
声が上ずった。
動揺丸出しで、恥ずかしい。
だが、椿は、自分がフラれたみたいに泣きそうな表情で、俺の手を握り返した。
「わた……しは、部下……で、居候で、借金もあって、親や親せきもいなくて、清掃員……で、食堂のおばちゃんで、お金なくて……、家族もいなくて…………」
手に、涙が降って来た。
「彪さんには……相応しく……ない……ので……」
次から次へと雨のように降って来て、俺の手を滑り落ちて、椿のスカートを濡らす。
鮮やかな碧が、深い碧に染まる。
『基本、椿ちゃんは信じたいことほど信じません。信じて裏切られるのを怖がっているから』
倫太朗の言葉を思い出す。
これも、そのせいなのだろうか。
そしてその理由はきっと、椿が言った『お金がない、家族もいない』ことだと思った。
椿は言葉こそ変えていたが、そこだけ二度言った。
「俺にも家族はいないよ」
「……っ」
椿がズズッと鼻をすする。
俺はジャケットのポケットからハンカチとティッシュをまとめて取り出し、テーブルに置いた。ハンカチで彼女の頬を拭う。
涙で輝く彼女の瞳に口づけたい衝動を抑え、そっと眼鏡の下から、ハンカチを下瞼に添える。
「俺はね、親に捨てられたんだ。母方の祖母に育てられたけれど、一緒に食事をしたこともない。疎まれて憎まれていたから。金は……、大学を卒業して家を出る時に大金を渡されたから、マンションを買えたし、きっときみの借金を返せるほどは持ってる。二度と顔を見せるなって、手切れ金」
「そんな……」
「仕事のことは、関係ない。上司と部下で恋愛や結婚をしてはいけないなんて社則はないし、清掃員だって食堂のおばちゃんだって立派な仕事だ。椿だって仕事を恥じているわけじゃないだろう?」
彼女がこくんと頷く。
「居候ってのも、俺が無理矢理きみをそうさせたんだ」
椿はちゃんと、ウィークリーマンションを契約しようとしていた。
それを、俺が阻んだ。
「他に気になることはある?」
親指で、彼女の手の甲をなぞる。
「きみが俺を受け入れられない理由、全部潰してやる。だから、条件とか状況じゃなく、気持ちで答えて欲しい」
再び、涙の雨が降って来た。
泣かせたくて身の上話をしたわけではない。
そう思って彼女の顔を覗き込む。
「ぶっ――!」
目に飛び込んで来た、状況に似合わない椿の表情に、思わず吹き出してしまった。
「くくくっ! はははっ!! なんて顔してんだよ」
思いっきり唇を噛み、頬を膨らませて、ギンギンに目を見開いている。涙だけでなく、鼻水まで垂れていた。
ドアベルが鳴り、俺は笑いを堪えて立ち上がった。
ウェイターがアフタヌーンティーを届けに来た。
彼を招くと、椿はソファにいなかった。
ウェイターが出て行った後、バスルームのドアが開いた。
椿がしょげた表情で座っていたソファに戻る。
「どうした?」
「……」
さっき、椿の顔を笑ったから怒ったのだろうか。
「椿?」
「折角綺麗にお化粧してもらったのに、落ちてしまいました」
あれだけ泣けば、そうだろう。
「またしてもらえばいいよ」
「え?」
「頼めばしてもらえるだろ」
「いえっ! そんな、わざわざ――」
「――椿は化粧しなくても十分可愛いと思うけど。それより、食おう。腹、減ったろ」
テーブルにセッティングされたアフタヌーンティーは二種類。
軽食セットと、スイーツセット。
それぞれ三段のスタンドに盛り付けられている。
俺はウェイターが持って来たカップをひっくり返して、ポットに入ったコーヒーを注ごうとした。
「あ、コーヒーでいいか? 一応、紅茶も頼んだけど」
椿の前に、紅茶のポットがある。
「私は紅茶にします」
俺と椿はそれぞれ、カップにコーヒーと紅茶を注いだ。
「夜は十八時にレストランを予約してるから、今は軽くにしておこう」と、俺は一口サイズのサンドイッチを摘まんで口に入れた。
何十個でも食べられそうだな、と思った。
椿はスタンドを見つめ、眉をひそめている。
「あの……」
「ん?」
「上から……とか順番があるのでしょうか
?」
「いや、好きに食えばいいだろ? 誰にも見られてないし」
「はぁ……」
椿は手元の皿を持ち、上に置かれている小さなトングを持ってスタンドを見つめる。
相変わらず眉をひそめているが、何から食べようかと迷っているのだとわかった。
「椿、好きなもの全部食べていいから、迷うことないぞ」
「全部!?」
カッと椿の目が見開く。
「ああ。あ、サンドイッチもいいぞ? 食べられないケーキあったら俺が食うし」
「……彪さんはどのケーキが好きですか?」
この問いに答えると、きっと彼女はそれが食べたくても俺に渡すだろう。その程度の彼女の考えは読めるようになった。
「ホント言うと甘いものはあまり好きじゃないけど、椿に好きじゃないものを無理に食べさせたくはないから、椿が遺したら食う」
また、眉が中央に寄る。
すべて自分が食べるべきかと、考えているのだろう。
一緒に暮らし始めてからずっと、だ。
椿は必ず俺の意見や好みを聞き、決して自分の感情は口にしない。
食事に関してがほとんどだが。
椿の好きにさせてやりたかった。
我儘を言えと言ってもそうしないのはわかっていたから、何となくそうなるように状況を運ぼうと思った。
椿を口説こうと言うのに、俺は彼女のことをほとんど知らないから。
まずは、食の好みからだ。
「で、では! いただきます」
椿は意気込んで、まずはショートケーキを取った。
トングを置いて、フォークに持ち替える。
小さなケーキを半分に割り、フォークに刺して口に運んだ。
二、三回の咀嚼の後で、椿が目を細めた。
わかりやすく喜んでいる。
すぐに残りも口に入れた。
椿の、その嬉しそうな表情を見たら、俺も嬉しくなった。
「美味い?」
「はいっ! ケーキはあまり食べないのですが、スポンジの柔らかさとか、生クリームのさっぱりとした甘さとか、特別美味しいのはわかります」
「ケーキ、好き?」
「はい」
「何のケーキが好き?」
「何でも好きです」
「よく食べるのは?」
「スーパーで割引になったものしか買わないので、シュークリームとかエクレアですかね」
スーパーで割引になるシュークリームやエクレアとは、定価でも百円ほどのものではないだろうか。たまに、そこから二割引きになっているのを見る。
そりゃ、違うな。
ホテルのパティシエが聞いたら、比べたこと自体を怒られそうだ。
今度、ケーキ屋のケーキを定価で買ってやろう。
「あれ、昨日は? 倫太朗とケーキ、食べなかったのか?」
「あ、はい。居酒屋だったので、ケーキはありませんでしたし」
「そっか」
ホールケーキを注文すれば良かった、と後悔した。
「なので、嬉しいです。こんなに美味しい誕生日ケーキをいただけて、とても嬉しいです」
明日、マンションに帰る前にホールケーキを買おう、と思った。
椿は本当に嬉しそうにケーキを食べては、感想を述べた。
俺はそれを、頷いたり相槌を打ったりして聞いた。
「社食でスイーツはないのな」
「手作りはありません。セットに果物やプリンなどはつけますが」
「飯作るのとスイーツ作るのとでは違うもん?」
「全然違います! スイーツは食事と違って、分量通りでなければ失敗します。保温ではなくて保冷だという点でも、社食での提供は難しいんです」と、椿が眉をキリリとさせて説明する。
社食の仕事が本当に好きなのだと、伝わってくる。
「そういうもんか」
「はい。そもそも、社食ではあまり需要もないでしょうし」
「そりゃ、そうだな」
お互いに、あっと言う間に食べ終えた。
椿に、他にもなにかルームサービスを頼むかと聞いたが、思いっきり断られた。
本当にこの部屋に泊まるのかと改めて聞いた椿に、俺はそうだと答えた。
「ベッドは二つあるし、今日は手を出さないから安心していいよ」
「えっ?」
「さっきの話だけど――」と、俺は空になったカップを置いて、彼女を真っ直ぐに見つめた。
「――責任の話。俺はさっきも言ったように、どんな責任の取り方でもさせてもらうつもりだ」
「そんなことは――」
手を挙げて、椿の言葉を制止する。
「――でも、もし、椿が許してくれるのなら、逃げないでいて欲しい」
「にげ……る?」
「ああ。俺の、きみが好きだと言う気持ちから逃げずに、きみの気持ちを考えて欲しい」
「私の……気持ち……」
「うん。俺は本当に椿が好きだから、椿の気持ちがハッキリするまで、もうきみには触れない。けど、椿に受け入れてもらえるように、信じてもらえるようにめっちゃ口説くから。だから、逃げずに考えてくれ」
こうして、俺の忍耐の日々が幕を開けた。