『俺は本当に椿が好きだから、椿の気持ちがハッキリするまで、もうきみには触れない。けど、椿に受け入れてもらえるように、信じてもらえるようにめっちゃ口説くから。だから、逃げずに考えてくれ』
言葉通り、その日以降、彪さんは私に触れることはなくなった。
彼への気持ちを受け入れてもいない私が、それを寂しいと思うのは、自分勝手だ。
けれど、優しくされると嬉しいし、一緒にいると触れたくなる。
わかっている。
私は彪さんが好きなのだ。
以前から人間性を尊敬していたが、今では異性として並々ならぬ好意を抱いている。
けれど、それを口にすることは、私には休日の公園で真っ裸になるより勇気が必要なことなのだ。
「いや、公園で真っ裸になったら捕まるからね?」
倫太朗が呆れ顔で言った。
誕生日以外でこうして彼と会うことは、かなり珍しい。
誕生日から二週間。
注文していたスーツが仕上がり、一緒に受け取りに行った。
注文書は私が持っていたから一人でも行けたのだが、彪さんが車を出すと言うので、断る口実として倫太朗と約束していると口走ってしまったのだ。
「どうして、公園で真っ裸になるより、自分を好きだって言ってくれてる男に好きだって言う方が勇気がいるのかなぁ。たった二文字だよ?『す』と『き』。それだけで幸せになれるのに」
「幸せって……なんだろう」
「うん? そりゃ、好きな人に好かれて、抱かれて、結婚して? 子供を産んで? とか?」
「なんで疑問形?」
「俗に言う一般論であって、俺の幸せとは違うからね」
倫太朗に結婚願望はない。
なぜなら、倫太朗の両親は仮面夫婦で、その上、彼の戸籍上の父親と血縁上の父親は別人だから。
倫太朗は、男女の愛を信じない。
それなのに、私には愛を謳う。
「倫太朗は、私の幸せが俗に言う一般論の幸せだと思う?」
熱々のドリアに息を吹きかけ、ゆっくりと口に運ぶ。
「そうであって欲しいと思うよ」
倫太朗はチーズハンバーグを口いっぱいに頬張った。
「どうして?」
「んぱきひゃんはひーおはーはんになうはら」
「なに?」
倫太朗は咀嚼し、水を飲んで一呼吸つく。
「椿ちゃんはいいお母さんになるから」
「そうかなぁ?」
「そうだよ。少なくとも、俺は椿ちゃんみたいなお母さんが欲しいから」
学生の頃は、『椿ちゃんみたいなお姉さんが欲しい』と言われた。
それでも、私と倫太朗は姉弟ではなくて。
思春期の好奇心と浅はかさで身体を重ねたが、その後はそれ以前よりも姉弟に似た絆を感じた。
お姉さんからお母さんて……喜んでいいのだろうか?
とにかく、倫太朗にとって私は血の繋がった家族よりも、家族ということだ。
「ねぇ、椿ちゃん」
「ん?」
「椿ちゃんの尊敬する彪さんは、嘘や建前で取り繕うような人じゃないんじゃない? そんな人じゃないから、椿ちゃんは彪さんを尊敬してるんでしょ?」
「……うん」
「だったら――」
「――それでも……」
倫太朗が言いたいことはわかっている。
彼の困り顔に気づかないふりをして、私はドリアをスプーンですくう。
「椿ちゃん。おばーちゃんは痴呆症で、錯乱状態にあったんだよ。言葉の意味も、記憶も感情もわからなくなってた。言った本人は数秒で忘れちゃうような言葉に、八年も傷つき続けちゃダメだよ」
八年……か。
「そもそも、椿ちゃんが自分で借金を返し続けているのも、おばーちゃんの言葉に対する意地みたいなもんでしょう?」
「そんなんじゃないよ……」
おばあちゃんが亡くなってから、私は自分だけを信じて生きてきた。
毎日の生活と借金返済に必死だった。
「ねぇ、椿ちゃん。深く考えずに彪さんに気持ちを伝えなよ。迷う理由も一緒に。あとは、彪さんが何とかしてくれるよ」
「何とかって……」
「何とかしてもらえなかったら、俺と結婚しよ」
買い物に行こう、みたいなノリで、表情一つ変えずに倫太朗が言った。
「俺と椿ちゃんなら、きっといい家族になれるよ」
「か……ぞく……」
「そ、家族」
家族。
それは、私と倫太朗が望んで已まないもの。
「とにかく! 椿ちゃんは、休日の公園で真っ裸になる勇気なんて捨てて、彪さんのベッドの上で真っ裸になる勇気を持ってね」
休日のランチ時、混雑した店内で、倫太朗はとんでもないことを言いながらハンバーグを平らげた。
*****
「柳田さん、この前から雰囲気変わりましたね」
ロッカールームで、あきらさんに言われた。
谷さんの奥さんであることは総務部長と人事部長、社食のメンバー以外には知らせておらず、『谷』の名字はこの会社には一人しかいないため、入社時から社食メンバーは『あきらちゃん』か『あきらさん』と呼んでいる。
「服の雰囲気……かな」
「変でしょうか」
「ううん、全然! 今までがどうってわけでもないし。ただ、少し雰囲気が柔らかくなったかなと思っただけ」
「そうですか」
褒められているのかわからず、お礼を言っていいものかと悩む。
「とても素敵だと思う」
「ありがとうございます」
女性への誉め言葉として適しているかわからないが、あきらさんはとても格好いい。
艶のある黒髪は襟足がすっきりしたショートヘアで、キリッとシャープな目元と、柔らかそうなふっくらとした唇はリップをつけていなくても美味しいそうに艶があるピンク色。
私より少し長身だから、百六十三~五くらいだろうか。
足が長く、全体に細身だけれど、胸とお尻の丸みは程よく、形が良い。
「あきらさんはモデルさんですか?」
「え?」
「羨ましい体型です」
「そう? 私は柳田さんの胸が羨ましいけど」
「肩が凝るし、太って見えるので私は嫌いです」
「お互いにないものねだりね」と言って、あきらさんが微笑む。
「谷さんはなんて幸せ者なのか……」
「え?」
心の呟きのはずが声に出てしまっていたらしい。
「いえ。すみません」
「ふふっ。私は、是枝部長の方がよほど幸せ者だと思うわ」
「えっ!?」
耳元で囁かれ、思わず仰け反る。
「一緒に暮らしているんでしょう?」
「なっ――!」
私としたことが、同居の事実を口外しないように彪さんにお願いすることを怠っていたことに、今ようやく気が付いた。
「あ、大丈夫。是枝さんと龍也は同期で親しいから聞いたらしいけど、他の人は知らないと思う。溝口さん辺りは知ってるかもしれないけど」
「三人も!」
「知られたくなかった?」
「常識的ではない現状ですので、誤解を招いてはひょ――是枝部長の沽券に関わりますので」
「あら? 是枝さんが、柳田さん大好きでマンションに囲っちゃったんじゃないの?」
「違います! 是枝部長は親切心から――」
「――あ、時間! 柳田さん、急がないと」
スマホを見たあきらさんが、ロッカーの扉を閉めた。
「え? あ、はい」
私も慌ててロッカーの鍵をかけると、あきらさんの後を追った。
調理中はマスクをして私語は禁止で、開店前の休憩時間中は他の人たちもいるため、私はあきらさんの誤解を解くタイミングを完全に逃してしまっていた。
「あーあ。今日は総菜が残っちゃったわねぇ」
閉店後、社食歴三十年の石谷さんがため息交じりに言った。
今日はカレーと麺類の注文がとにかく多かった。
カレーは途中でなくなってしまい、三名ほど食べられなかった。その上、各麺まで足りなくならないかと、みんなハラハラしたほど。
「こんなに波があるものですか?」とあきらさんが聞く。
「会話を小耳に挟んだのですが、明後日の予定だった会議が今日の夕方に変更になったそうです。会議の準備に忙しく、短時間で食べられる麺類の注文が多かったようです」
「なるほど。わかっていればそれなりに準備したのにねぇ」
「はい」
「あ、やなちゃんは休憩に入って? この後も仕事でしょ?」
「はい。ですが、発注作業を――」
「――やっとくから。あきらちゃんもやなちゃんと先に休憩入って?」
「はい」
「ありがとうございます」
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