テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
4
31
1,630
翌日、ジョンナは町立図書室の奥から、黄ばんだ民俗記録を三冊抱えて花屋へ戻ってきた。題字はどれも読みづらく、表紙には古い蔵書印が押されている。店先ではエフチキアが鉢物を並べ替えていたが、その重たい本を見た途端、「今日は難しい話の日ですね」と顔をしかめた。
「難しいけど、たぶん大事」
ジョンナはそう言って、裏口の机へ本を広げた。
ページをめくるたび、乾いた紙の匂いが立つ。細い字で書かれた古文書の写し、聞き取り調査の記録、山仕事の口伝。そこに何度も出てくるのが、“守森の拾い神”という呼び名だった。
「やっぱり神様いたんじゃん」
ドゥシャンが身を乗り出す。
ジョンナは首を横に振った。
「いた、というより、こういうふうに呼ばれていた共同体の知恵ですね」
彼女は一つの記録を読み上げた。
「山で人が行方不明になると、家族と近所の人が名前を呼びながら沢と尾根を回った。見つかった場所、服の色、最後に見た時刻を板札へ書き、神社へ掛けた。そうすると、次に山へ入る人が同じ情報を持って動けた。これが“守り神へ頼む”と呼ばれていた」
「神頼みというより、連絡網だな」
オブラスが言う。
「その通りです」
ジョンナはうなずく。「名前を呼ぶこと、場所を伝えること、記録に残すこと。全部、命を落とさせないための手順だったんです」
ハヤは、甘い名札を入れたままの引き出しを思い出した。
名を呼ばれるのは、生き延びる技術だ。
電子辞書の追記が、急に現実の重みを持ち始める。
「じゃあ、名札つけろって言ってたのも」
ノイシュタットがハヤを見る。
「からかってただけじゃないって?」
「半分はからかってました」
ハヤは即答した。
「半分か。思ったより高評価だね」
「残り半分は、たぶん……分からないでもないです」
それを聞いたアンネロスが、口元を緩めた。
「やっと素直になってきた」
ジョンナは別の記録を開いた。そこには祭りの由来も書かれていた。秋の終わりに、人々が店を巡りながら話を聞く習わしは、単なる娯楽ではない。山の道順、雨宿りできる家、怪我をした時に頼れる店、井戸の場所。そうした暮らしの情報を、話と笑いに混ぜて広めるための仕組みだった。
「嘘の実話祭りは、この古い習わしを商店街向けに作り直したものです」
ジョンナが言う。
「面白い話を聞きに歩いているうちに、道も人も覚える。困った時に頼れる相手が増える」
エルドウィンが、ふっと息を漏らした。
「だから、ただの余興じゃなかったのか」
「うん」
ハヤも答える。「花屋が入口だったのも、意味があったんだ」
花を買いに来る人は、祝いごとにも、別れにも、謝りにも来る。名前を書き、渡す相手を思い出し、誰かのところへ向かう。たしかにここは、町の話が行き交う場所だった。
ドゥシャンは感心したように腕を組んだ。
「じゃあ俺、守り神の使いぐらいにはなれるかな」
「秘密をすぐしゃべる使いは困る」
マクスミリンが切り捨てる。
皆が笑い、重くなりかけていた空気がいくらかほどけた。
けれどハヤの胸には、笑いだけではない感覚が残った。
名を呼ぶことは恥ずかしいことではなく、誰かを生かすための行為でもある。
そう考えると、自分が名札を避け続けてきたことが、少しだけ情けなく思えた。
店先で風が鳴り、鉢植えの札がかすかに揺れた。
そこに書かれた花の名は、ただの飾りではない。世話の仕方を伝え、枯らさないための印でもある。
人の名前も、たぶん同じなのだ。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!