テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その夜、閉店後の花屋はひどく静かだった。店先のバケツは洗って伏せられ、床に落ちた葉も掃き集められ、残った花だけが低い灯りの下で息を潜めている。澄江は帳場の奥で古い台帳を整理していたが、ハヤが「昔の引き出しを見てもいい」と言うと、少しだけ目を細めてうなずいた。
「右の一番下。開ける時、引っかかるよ」
それだけ言って、あとは何も訊かなかった。
木の引き出しは、たしかに途中で少し止まった。力を加えると、奥で古い木が軋む。中には輪ゴムの縮んだ束、使わなくなった伝票、花の仕入れメモ、もう書けない鉛筆。それらを脇へどけたとき、藍色の布表紙のノートが現れた。
ハヤは、手を止めた。
表紙の角が擦れて白くなっている。その傷み方に見覚えがあった。子どもの頃、母が何かを隠すようにしまっていたノートと同じだった。
作業台の上へ置き、そっと開く。
中には日付の飛び飛びな記録が並んでいた。どの日も長くはない。仕入れた花の名、祭りの準備の走り書き、誰それに渡した花束の色合い。忙しい手のまま書いたのだろう、文字は少し右上がりで、ところどころインクが滲んでいる。
《八月二十日 蒼司くん、また人の前だと変な顔をする。紙の上では何でも書けるくせに》
《九月五日 祭りの地図、すごく分かりやすい。説明が下手なところまで惜しい》
ハヤは思わず息を詰めた。
母も、真柄蒼司を“蒼司くん”と呼んでいた。
ページをめくる指が少し速くなる。
《十月十二日 私は前に出る方じゃない。でも、店の奥だけにいるのが正しいとも思わない》
《十月二十五日 名札をつけるのは照れる。けれど、名前を知らないと人は頼れない》
そこまで読んだところで、視界がぼやけた。
最後の方のページに、短い一文だけの記録があった。
《ハヤは前に出なくてもいい。でも、消えるように生きてほしくない》
胸の奥が、静かに崩れた。
ハヤは声を立てないまま泣いた。大きく泣くのではなく、目の端から熱いものが落ちて、ノートの余白に小さな丸を作る。母は自分を引っ張り出したかったわけではない。ただ、消えるようにだけは生きてほしくなかったのだ。
隣へ、濡れた雑巾を絞る音がした。
見ると、ノイシュタットがいつのまにか少し離れた場所で花台を拭いていた。こちらを見もしない。こちらへ来て慰めるでもない。ただ、いつもより丁寧に雑巾を絞り、いつもより静かに作業している。
その距離がありがたかった。
「見てたんですか」
鼻にかかった声で言うと、ノイシュタットは肩をすくめた。
「見てない。聞こえただけだ」
「何が」
「泣くのを我慢する音」
腹が立つような、でも今日は腹を立てきれないような言い方だった。
「母さん、知ってたんですね」
ハヤはノートへ視線を戻した。「私が前に出るのが苦手なのも、名前を言うのが嫌なのも」
「親は、案外知っている」
「それでも、消えるように生きるなって」
「いい言葉だ」
ノイシュタットは、今度は少しだけこちらを見た。「命令じゃないところが特にいい」
ハヤはノートを閉じ、表紙を撫でた。
継ぐというのは、店を守ることだけではないのかもしれない。誰かが言い残したこと、書き残したこと、届かなかった気持ちまで引き受けることなのだ。
灯りの下で、白いトルコキキョウが静かに揺れた。
母も真柄蒼司もいない店で、それでも言葉だけは、まだ少しずつ生きている。
#花屋
#怖い