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#大人ロマンス
桃下結衣
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「おまえ、心臓専門のドクターなんだってな。子供の頃になりたかったブラック・ジャックの夢、ちゃんと叶えたんだな」
柔らかな声でそう言って、兄はあの頃と同じ笑窪を頬に刻む。
「ブラック・ジャックの夢……?」
私は手のひらで涙を拭い、眉を引き上げる。
「ほら。小学生の頃、散髪屋で夢中になって読んでた漫画本。おまえ、将来はブラック・ジャックみたいな医者になりたいって言ってたじゃないか」
「ブラック・ジャックは全ての専門分野に精通してるスーパードクターだもん。私はただの循環器内科医。ブラック・ジャックの足元にも及ばない」
「専門分野がどうこうなんて関係ないだろ。医者は医者。簡単になれるものじゃないだろ? 小さな診療所しかないこの田舎町から医者が誕生しただけで、ビッグニュースだ。おまえはこの町の誇り。それに比べて兄ちゃんは、この町の恥晒しだけどな」
冗談めかして言うものの、顔には自嘲の色を浮かべる兄。
そんな兄の表情に悲傷を感じ、言葉にならない思いが突き上がる。
「……お兄ちゃん、何言ってるの? そんなわけないよ。町のみんなだってお兄ちゃんの優しさを知ってる。お母さんが言ってた……お兄ちゃんが帰って来た時、誰も悪く言う人はいなかったって。神谷のおじさんも快く迎え入れてくれたって……」
咄嗟に口をついて出た言葉。
けれども、それは慰めに満ちていて、かえって兄を傷つけるのではないかと不安がよぎり、思わず語尾を濁らせた。
「……ああ、この町の人達はみんな温かい人ばかりだ。よそ者が集まる無情な都会とは違う。本当は、そこで一旗揚げたかったんだけどな……そんな甘い世の中じゃないって、自分の力量を思い知らされた。身の程を知る……それだけでも、いい経験だったかもしれない」
気まずそうにする私を気遣ってか、まるで全てを悟ったような顔をして兄が言う。
「……」
「おいおい、そんな顔すんな。俺さ、帰って来てからこの神谷社長の工場で世話になってて。最近、やっと木材加工を教えてもらえるようになったんだ。リフトの免許も取ったし、これからもっと技術を身につけて、いつか工場の仕事を任せてもらえるようになりたいと思ってる」
「工場の仕事を?」
「そう。神谷社長が背中を押してくれたんだ。凄いだろ? いつかこの町を支える工場で、責任ある仕事ができるようになるんだ」
兄は声のトーンを上げ、顔に喜色を浮かべる。
「あの厳格な神谷社長が背中を押してくれて……将来はお兄ちゃんが工場のリーダーになるの?」
「ああ。……とは言っても、まだ修行の身だからな。職人として一人前になるには、何年もかかる。だけど、何年かかっても絶対に社長の期待に応えてみせる。それが、黙って姿を消したにもかかわらず、こんな俺を優しく迎え入れてくれた町の人達への恩返しになると思うから」
意を決したような面持ち。
身ぐるみ剥がされるほどのどん底を味わい、そこから這い上がった兄の顔に今浮かぶのは、きっと人生で二度目の光。
それは、未熟だった頃に見たぬかるみの中にある希望ではなく、固い地面に足を踏みしめて見る揺るぎない希望の光。
ああ……そうか。
お母さんが言ってた……お兄ちゃんはもう大丈夫だって。生きていく術を身につけたから、もう大丈夫だって。
「……うん、そうだね。それが一番の恩返しだね」
病を抱えながらも家族を思う母への。そして、天国で見守ってくれてる父への、一番の親孝行。
――それなら、
私がするべきことは何? できる親孝行は何?
「……」
「……亜紀?」
急に黙りこくる私を見て、兄が眉根を寄せる。
「お兄ちゃん、お母さんのことなんだけど……」
「母さんのこと? 母さんがどうかしたか?」
俯き加減で定まらない言葉を漏らした私は、ふと顔を上げ、兄を見る。
目に映るのは幼い頃に見た、何一つ変わらない兄の優しい瞳。
「……うん。やっぱ後でいいや」
喉に燻る言葉を飲み込み、誤魔化すように笑みを形作る。
「何だよ、言いかけといて」
「うん、後で話すから。……あっ、これ忘れてた」
向けられる視線を遮るようにして、ずっと抱きかかえていた風呂敷包みを兄に差し出す。
「ん? 何だこれ」
「お母さんが作ったおはぎ。神谷さんの家に届けるように頼まれたの」
「ああっ、おはぎか。母さんのおはぎは評判いいからな。住み込みの若い衆もみんな喜ぶよ」
兄は私から包みを受け取ると頬を緩ませ、目尻に細かなしわを刻んだ。
「それでね、今夜の夕食はキジ鍋だって。もう私にばれちゃったんだから、お兄ちゃん、隠れなくたっていいでしょ?」
わざと皮肉交じりに言って、唇を反らすようにニッと笑う。
「隠れなくたってって……別に隠れるつもりなんてなかったぞ。夜には帰ってちゃんと話そうと思ってた」
「本当に?」
「ああ、当たり前だろ。家には俺の荷物がある。立ち寄るくらいなら気づかないかもしれないが、姿はなくとも泊まれば気づく」
すり抜けるように私の言葉をふっと軽くかわして、風呂敷の結び目を掴んで歩き出す兄。
……姿はなくとも気づく?
ということは、私が気づくまで言わないつもりだったのかな。
小走りに兄の背中を追いかけ、口元に複雑な笑みを浮かべる。
「社長と奥さんが亜紀に会いたがってたから、少し寄っていけよ」
「うん。そうだね。少し寄っていこうかな」
「……あ。一つ言い忘れてた」
片手で持つ風呂敷包みを体の横で揺らしながら、兄がぽつりと声を落とした。
私は兄の横に遠慮がちに並ぶと、その顔色を窺うように頬骨の張った横顔を見上げる。
「……綺麗になったな、亜紀。
おまえは俺にとっても自慢の妹だ。俺が崩れていた時に力を貸してくれた借りは必ず返す。必ず、返す」
言葉を噛み締めるように言った後、兄は私を見つめ、その目で頷く。
「……力を貸してくれた借り」
工場に流れ込む冷気にさえも押し潰されそうな、か細い声が無意識に落ちる。
お母さん……お兄ちゃん……
私にそんな言葉をかけないで。
だって、私は何も……
「亜紀、明日は駅まで送ってやるよ。夜までに名古屋に戻ればいいんだろ?」
私の小さな声を捉えずにいた兄は、優しい目をして私に問う。
「……うん。ありがとう」
放り出せない心の闇を隠し、吹けば剥がれ落ちてしまいそうな笑みを顔に貼り付けた。
コメント
1件
第133話、読み終えました。兄妹の再会、すごく温かい空気でほっとしたんだけど、最後の亜紀さんの「放り出せない心の闇」が気にかかりますね。兄が誇りに思う妹だからこそ「お母さんのこと」を話せなかった切なさ…。おはぎのエピソードや工場の話など、地に足のついた希望が描かれているからこそ、亜紀さんの胸の内が余計に沁みました。これからどうなるのか、続きが気になります。