テラーノベル
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家族三人で囲む土鍋の蓋を開けると、醤油をベースにした鶏がらスープと春菊の香りが湯気とともに立ち上る。
「うわぁ、美味しそう! キジ鍋なんて久しぶり。懐かしい香りがする」
ぐつぐつと煮立つ鍋の中で、キジ肉、豆腐、大根、白菜、葱、春菊が小刻みに踊る。
私は子供みたいにはしゃいだ声を上げ、菜箸で白菜とキジ肉を一緒に掴んで器に運ぶ。
「懐かしいって……名古屋でキジ鍋は珍しいのか?」
グラスに注いだビールを口にする兄が、眺めるような目をして私に言った。
「珍しい珍しい! そういう専門のお店に行けばあるけど、『もつ鍋食べに行こうよ』と誘われても、『キジ鍋食べに行こうよ』とは誰も言わないもん。私たちは子供の頃当たり前に食べてたけど、山を下りたら高級食材。みんな、キジ鍋がどんなものかも知らないと思うよ」
湯気を纏う肉をぱくっと口に入れ、頬張りながら満面の笑みを浮かべる。
キジ肉の食感はささみ肉によく似ているが、それよりも弾力があり、鶏とは違う独特な香りがある。
「匂いを消す下拵えをするのにコツが要るで、慣れとらん家では料理するのが難しいわな」
母はそう言って、ほくほくの大根に箸を沈ませ、目尻にしわを刻んだ。
湯気の向こう側で笑みを浮かべる母を見ると、不意に幼い頃の記憶が蘇る。
趣味で鳥猟をしていた父。
私は父と兄の後ろにくっついて、山の奥深くへよく出掛けていた。
深い草の茂みにじっと隠れているキジを匂いで探し出すのは、当時、猟犬として飼っていた愛犬の仕事だった。
鋭い嗅覚でキジを探し出し、尾をぴんと張って獲物の居場所を知らせると、父の「よしっ!」の号令で犬は獲物を追い、派手に飛び立たせる。
空に響き渡るのは、雲を貫くような銃声。
私はその銃声の木霊を聞きながら、落下したキジを捕まえようと走る愛犬と兄の背中を必死に追った。
子供の頃には日常過ぎて感じなかったけど……
「貴重な体験したよね……」
その旨みを味わい、ありがたくいただきながら、ぽろりと声を落とした。
「……ん? 何の話だ?」
私が発した、何の脈絡もない言葉に首を傾げる兄。
「んん、……ちょっとね、お兄ちゃんがよく山で滑ってズボンのお尻破いてたこと思い出したの」
冗談めかして、くくっと喉を鳴らす。
「はぁ!? おまえだって、斜面から転げ落ちて泣きべそかいてたじゃないか。
……あっ、田んぼでドジョウ取ってる時に顔から転んで、顔面泥まみれで大泣きしたこともあったなぁ」
「ちがっ。あれは、お兄ちゃんが後ろから私を押したからでしょ! 泥まみれくらいで泣かなかったもんっ」
「いやいや、泣いてた。いつも俺の後を金魚の糞みたいについて来て、振り返ると泣いてた」
ビールを喉に流し込み、私をからかうように歯を見せる兄。
「振り向くと泣いてた!? 嘘ばっかり! 私はそんな泣き虫じゃなかったよね? お母さんっ」
私はぷくっと頬を膨らませ、兄に向けていた視線を母へ移す。
すると、目に映ったのは頬をほころばせ、嬉しそうに笑う母の顔。
「……お母さん?」
眩しい光でも見るように目を細める母を見つめ、私は箸の動きを止めた。
「……二人とも、帰ってきてくれて本当にありがとな。母さん嬉しい。また、こうして家族で一つの鍋をつつけて。兄妹二人、またこうして仲ようできて。……もう、なんも要らんよ。
あんた達が仲よう生きていけるなら、これ以上は母さん何も望まん」
母は手にする箸を握りしめ、目に涙をいっぱいに溜めながら声を震わせる。
「……お母さん。これ以上は何も望まないって……」
――それは、自分の体のことを言ってるの?
治療は受けず、このまま運命に身を任せると言いたいの?
意を決したかのような母を見て、どんな言葉も無力に感じ、声も出せずに唇を引き結ぶ。
「ああ、そうだ。父さんにも食べさせてあげないかん。父さん好きだったからな、キジ鍋」
母はそう言って、陶器の器に具をいっぱい入れて仏壇に向かう。
その小さな背中を見守るように、黙って母を見つめる二人の視線。
「……お兄ちゃん、後で私の部屋に来て。……昔みたいに、星の観察に付き合ってよ」
「え? 星って……二階のおまえの部屋から?」
「うん。……お母さんにはそう言って。お兄ちゃんに話したいことがあるの。大切な話なの」
父の前に座り、手を合わせる母の背中から視線を外し、真剣な眼差しを兄に向けた。
――幼い頃の記憶が宿る、二階の子供部屋。
私がこの部屋を空けて名古屋へ越したのは、十八歳になったばかりの春だった。
五畳半の空間に置き去りにされたのは、御近所のお姉ちゃんから譲り受けた古い勉強机と、スプリングの軋む音がする椅子。
そして、黄ばんだ辞典や図鑑が並ぶ小さな簡易本棚と、主人を失い、枠組みと板だけの姿となったシングルベッド。
殺風景なその部屋に足を踏み入れ、生地の薄れた水玉模様のカーテンと窓ガラスを開けた。
窓から流れ込む冷たい夜風が部屋の空気を押し流し、淀んだ空気を浄化していくように感じられる。
視界に広がるのは山に囲まれた深い暗闇と、その夜空を明るく照らす満天の星。
私は窓際に椅子を運び、澄み切った空気の中で鮮やかに光る星たちを眺める。
この世から全ての音が奪われてしまったかのように、辺りには黄昏のような静けさが満ちている。
私は上着のポケットにそっと手を入れ、その手で包み込むようにしていたものを取り出した。
開いた手のひらに載るのは、今泉さんがくれたフェンネルの種が入った小さな御守り。
……今泉さん。
あなたは今、何をしていますか?
私がここにいるように、あなたも、あなたにとってかけがえのない家族と大切な時を過ごしているのでしょうか。
あなたがあるべき姿……
私があるべき姿……
ここに来て、私がこれから何をするべきなのか、大切な者を守るために歩むべき道がはっきりと見えた気がします。
「あなたの揺るぎない優しさが、私に強さを与えてくれたから……」
同じ星空の下で彼を想い、手の中の御守りをぎゅっと握る。
「この部屋寒いな。何で窓を開けてんだよ」
星の瞬く音さえ聞こえてきそうな静寂の中で、兄の声が響くように聞こえてきた。
入口に立つ兄は寒そうに体を縮め、急ぎ足で私の正面に来るとガラス窓に手を掛ける。
流れ込む夜風は遮断され、閉じられた窓からは冷気だけが漂っている。
「あーあ、閉めちゃった。星が凄く綺麗に見えたのに」
私は窓際に立つ兄を見上げ、静かな笑みを形作る。
「……お母さんは?」
私は山間に浮かぶ月を見つめ、静けさの中に声を落とした。
「風呂に入ってる。父さんの前に三組布団を並べて、今夜は家族四人で一緒に寝るんだって張り切ってるぞ。……ところで、大切な話って何だ?」
勉強机にもたれ掛かる兄は、口角に浮かべていた笑みを隠し、それとなく声のトーンを落とした。
私は月明かりから視線を外し、口を引き結んだまま兄を見つめ返す。
「母さんには、聞かれたくない話なんだろ?」
「……うん、そう。……お兄ちゃん、お母さんの病気のことをどこまで知ってるの?」
「どこまでって……急に脈が速くなる不整脈があって、それを薬で抑えてるんだろ? 一カ月に一回、バスで隣町の病院に通ってるぞ」
「受診に付き添ったことある?」
「いいや。二回くらい送り迎えをしたこともあったけど、平日は俺も仕事だし。……何でそんなことを聞くんだ? 大切な話って、母さんの病気に関係することなのか?」
私の表情の異変に気づいた兄は一瞬のうちに顔色を変え、訝しそうに私を見る。
「……お母さん、本当は病状がよくないの。
足の付け根などの静脈から心臓にカテーテルを入れて、高周波電流で原因となる部分を焼灼する治療を勧められているの」
「え……心臓にカテーテル? 電流で焼灼って……」
兄の顔にさざ波のような影が走る。
「……何言ってんだよ。母さんは薬で抑えられてるって……薬さえ飲み続けてれば、何の心配もないって言ってたぞっ!」
次の瞬間、兄は狼狽し、感情を抑え切れないかのように声を荒げた。
「……それは嘘なの。私にもお兄ちゃんにも嘘ついてたの」
「……嘘って。何でそんな嘘をっ!」
「……私達に心配を掛けないために。
お母さんから聞いた話だけど、お母さんの場合は処置の難度が高いみたい。だから怖がってて……。それに、通院も含めてお金がかかる治療だから……」
語尾を濁し、口惜しそうに顔を歪める。
コメント
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柏木さくらさん、第134話拝読しました。 家族で囲むキジ鍋の湯気の向こうに、幼い日の思い出や兄との掛け合いが浮かんで、胸がじんわり温かくなりました。特に母が「もうなんも要らん」と涙を浮かべる場面は、読んでいてグッときました。それだけに、あとに続く病気の告白の重みがひしひしと伝わってきます。今泉さんからもらったフェンネルの御守りを握るラストも、優しくて切なかったです。続きが気になります。
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