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#怖い
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翌朝、花屋の開店前はいつもより落ち着かなかった。エフチキアが花の並びを二度直し、アンネロスが差し入れの焼き菓子を勝手に棚へ置き、ドゥシャンは頼まれてもいないのに箒を持ってうろうろしている。誰も口には出さないのに、空気が落ち着かなかった。
理由は一つだ。
作業台の上に、甘い名札が一枚だけ置かれているからである。
薄い生成りの紙に、小さな花の型押し。端にはアンネロスの店の焼き菓子の香りがほんのり移してあり、鼻を近づけると、砂糖を焦がしたような柔らかい匂いがする。
中央には、ハルミネが整えた字で《ハヤ》と書かれていた。
ハヤはその前に立ったまま、なかなか手を伸ばせずにいた。
「今ならまだ“風で飛ばされた”ことにできますよ」
エフチキアが真面目な顔で言う。
「ずるい逃げ道を用意しないで」
「優しさです」
「甘やかしです」
アンネロスが切り捨て、ハヤの背中を軽く叩いた。「つけなさい。名前なんて、最初は借り物みたいでいいのよ」
借り物みたいでいい。
その言葉に、ハヤは少しだけ肩の力を抜いた。
名札を持ち上げる。紙は見た目よりしっかりしていて、指先へわずかな温度が返ってくる。エプロンの胸元へ留めると、いつもは無地だった場所に、自分の名前がぽつんと現れた。
胸の前が落ち着かない。外へ出れば、誰の目にも入る。そう思うだけで喉が渇く。
それでも、逃げるほどではなかった。
開店の札を返すと、最初の客はいつもの常連の老婦人だった。供花ではなく、小さな白い花束を買いに来る人で、前から何度も顔を合わせている。
老婦人は花を見る前に、ハヤの胸元を見た。
「あら」
たったそれだけで、心臓が跳ねる。
「似合うじゃない」
老婦人はそう言って笑った。「ずっと前からいたのに、やっと名前が分かった」
それだけだった。責めるでもなく、大げさに褒めるでもなく、本当に自然に言っただけ。
でも、その何でもなさが、ありがたかった。
「……ありがとうございます」
ハヤが答えると、声が少しだけ震えた。
会計の横で見ていたノイシュタットが、わざとらしく咳払いをした。
「実に良い。香り、字体、配置、すべてにおいて」
「黙って」
「褒めているのに?」
「気取ってるから」
「僕は呼吸と同じくらい自然に気取る」
すかさずアンネロスが紙袋で彼の腕を叩き、店の中に笑いが広がる。
緊張が、そこでようやく少しほどけた。
昼前には、子どもが名札の匂いを嗅ぎに来て、エフチキアが「食べられません」と三回言う羽目になった。午後には地方紙の記者が通りがかり、「あ、ハヤさん」と名前を呼んだ。たった数文字なのに、その呼びかけはまっすぐ胸へ届く。
ハヤは夕方、ガラス戸に映った自分を見た。
胸元に自分の名前がある。昨日までなら落ち着かなかったはずなのに、今日はそれが少しだけ頼もしく見える。
名札は看板ではない。命綱だ。
誰かに覚えられ、困ったときに呼ばれるための、小さな糸なのだ。
「その顔なら、明日もつけられる」
後ろからノイシュタットの声がした。
ハヤは振り返らずに答える。
「明日もつけます」
「うん。良い返事だ」
店の外では、秋の薄い雲の切れ間から、遅い光が朝風通りへ落ちていた。
名前をつけた一日が、静かに終わろうとしていた。