テラーノベル
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その日の夜遅く、村上家では、東京出張から戻った国雄が自室に入ったところだった。
上着をハンガーに掛けていると、ノックの音が響き、母・美津(みつ)が入ってきた。
「国雄さん、遅かったのね」
「ただいま、母さん。起こしてすみません」
「まだ起きていたから大丈夫よ。ちょっとあなたに話したいことがあるの」
「改まって何ですか?」
「疲れて帰ってきたところ悪いけど、あなたのお嫁さんの件なんだけど……」
「それなら前にも言いましたよね、見合いはしませんと。結婚する時は、自分で相手を探しますから」
「まったく……あなたは、お父さんに似て頑固ね。でもね、兄弟の中で独身はあなただけなのよ。それも長男なのに……」
「母さん、今は仕事に集中したいって言いましたよね?」
「もちろんわかってるわよ。ただ、そろそろ考えないと、村上家には跡継ぎの問題もあるし……」
「それなら、結婚相手は若い娘を探せばいい。それに、もし私が結婚しなくても、正雄(まさお)や秀雄(ひでお)の子供がいるんです。跡継ぎには困らないのでは?」
「そうは言っても、村上家の跡取りは長男のあなたの子でないと! 実はね、先日お茶会で、あるお嬢さんを紹介されたの。だから、あなたにどうかしらと思って」
「お嬢さん? どこの娘ですか?」
「ほら、大瀬崎様のところのお嬢様よ」
「大瀬崎?」
ワイシャツのボタンを外していた国雄の手が、止まった。
「あっ、大瀬崎って言っても、先代のお嬢さんじゃないわよ。数年前に当主になられた方のお嬢さん!」
「大瀬崎家は代替わりしたのですか?」
国雄は少し驚いた表情で、母親に尋ねた。
「あら、あなたは東京にいたから知らなかったのね。そうなの、前の社長様が突然事故で亡くなられて、今はご長男が後を継いでいらっしゃるのよ」
「大瀬崎家の長男ということは、東京で事業に失敗した方ですか?」
「あらやだ、なんでそんなことを知っているの?」
「東京に長くいれば、そのくらいの噂は耳に入りますよ」
「そうだったのね。大瀬崎様は、ぜひあなたに会社も任せたいとお考えのようなの。だから、うちと縁を結びたいと仰ってね」
「なるほど……。ところで、前の当主のお嬢さんは、今はどうされているのですか? たしか、歳は二十歳前後だったと思いますが」
「あら、あなたその方を知っているの?」
「昔、一度お会いしたことがあります」
「まあ、そうだったのね! あのお嬢さんは、本当にお気の毒だったわよねぇ……」
「気の毒? 何かあったのですか?」
「それがね……」
母の美津は、耳にした噂話を息子に伝えた。
「本当に不憫だわ。ご両親を亡くしてまだ数年しか経っていないのに、今度は夫まで……それも結婚初夜に!」
「…………」
「まあ、でも、あなたのお相手はその方じゃないから安心して! あなたとお見合いしたがっているのは、現社長の令嬢・蘭子様だから」
「申し訳ありませんが、お断りしておいてください」
「国雄っ! そんな我儘言わないで、もっと真剣に村上家のことを考えてちょうだい!」
「母さん、何度も言いますが、自分の結婚相手は自分で見つけます。だから、その話は断ってください」
「そんなことを言って! あなた、本当に自分でお嫁さんを見つけられるの? 母さん、信じていいのね?」
「もちろん。約束は守りますよ」
「そう……それならいいわ。もう、どんなお嬢さんでも構わないから、一日も早く結婚して父さんと母さんを安心させてちょうだい! お願いよ! じゃあ、おやすみなさい」
美津はそう言って、息子の部屋を後にした。
「どんなお嬢さんでも構わない……か」
母親が言った言葉を繰り返すと、国雄は思わず苦笑いをする。
そして、窓の外に広がる暗闇を見つめながら、12年前に出逢った少女の面影を思い返した。
(新婚初夜に夫を亡くしたのか……)
国雄は思わず眉をひそめると、真剣な眼差しで遠くに光る街灯をじっと見つめた。
翌日、この日は七夕だった。
あの夜、紫野の夫は帰らぬ人となった。
医者の診断によれば、夫の死因は心臓発作だという。
若い嫁を迎えたことで、極度の興奮が発作の引き金になった可能性が高いと説明された。
葬儀の後、紫野は高倉家の親戚たちから厳しい非難を受ける。
「お前が薬でも盛ったんじゃないのか?」
「最初から金目当てだったのだろう?」
どれも耳を覆うようなひどい言葉ばかりだった。
葬儀の喪主は、一郎の弟が務めた。
紫野がまだ高倉家に入籍していないと知ったのは、一郎の死後だった。
後日入籍するつもりだったのか、未入籍のままでいるつもりだったのかは不明だが、戸籍上、紫野は未婚のままであることが分かった。
籍に入っていない以上、紫野が高倉家にいられるはずもなく、彼女は遺産を受け取ることもないまま家を追い出された。
そして、行き場を失った紫野は、千代の実家に身を寄せていた。
たった一夜で未亡人になってしまった紫野を、大瀬崎の伯父夫婦が受け入れるはずもなく、千代だけが唯一の頼りだった。
千代の実家は高倉家からほど近い場所にあり、商店を営んでいる。
店は千代の甥夫婦が切り盛りしていた。
紫野が千代の実家に身を寄せて二週間。
彼女はそろそろ仕事と住まいを探し、新たな生活を始めなければと考えていた。
「千代、少し外に出てくるわ。お夕飯の支度までには戻りますから」
「支度は私たちがするから、気にしないでください」
「そんなわけにはいかないわ、お世話になっているんだもの。じゃあ、行ってきますね」
「お気をつけて」
「はーい!」
紫野はあえて明るく返事をすると、町の中心部へ向かった。
新しく建て替えられた町役場には、求職者用の掲示板があると聞き、彼女はそこで仕事を探すつもりだった。
役場へ着くと、入口脇の掲示板に人だかりができていた。
(みんな仕事を探しているんだわ……見つかるかしら……)
紫野はため息をつきながら掲示板の前に進むと、貼られた求人票を一枚一枚見ていった。
一方、役場の中では、国雄と有島進(ありしますすむ)が出口へ向かっていた。
進は、国雄の元運転手の息子で、現在は国雄の秘書兼運転手を務めている。
二人は同じ歳の幼馴染で、兄弟のように親しい間柄だった。
「それで、僕に調べて欲しいって言ってたのは何の件?」
「女の身辺調査だ」
「はっ? 女? 一体何を調べるんだ?」
「その女がどこにいて、今何をしているか調べて欲しい」
「おいおい、君が女に興味を持つなんて珍しいな! で、どの女のことを調べるんだ?」
「大瀬崎蚕糸株式会社の前社長の娘だ」
「前社長の娘? 結婚してすぐに未亡人になったって噂の子か?」
「そう、その子だ」
「何で彼女のことを? あの子はたしか、相当歳の離れた男の元に嫁がされたって聞いたぞ」
「そうなのか?」
「ああ。たしか相手は、高利貸しで有名な高倉家の当主だ。大瀬崎の工場の資金繰りのために、前社長の令嬢が売られたんじゃないかって噂になってたよ。それにしても、あの50過ぎの茹でガエルみたいな男に、20そこそこの生娘が嫁ぐなんてなぁ……可哀想に……」
「…………」
「で、何で君が彼女のことを?」
「いいから、言われた通りにやってくれ!」
国雄は役場のドアを開け、掲示板の前にいる群衆を一瞥して通り過ぎようとしたが、何かに気付いて急に足を止めた。
「おいっ、急に止まるなよ、ぶつかるじゃないか!」
「悪い! 進、 今、頼んだ件は取り消しだ」
「はぁ? 何言ってんだ? ころころ変えるなよな」
「あと、用事ができたから、先に帰っててくれ」
「はっ? なんだよ急に。用事って何だ?」
「なんでもいいから」
進は不満げな顔をしつつ、国雄に背中を押され仕方なく一人車へ向かった。
進が姿を消すと、国雄は役場の入口の壁に寄りかかり、腕を組んで静かに佇む。
彼の視線の先には、掲示板を見つめながら懸命に何かを書き写している一人の女性の姿があった。
コメント
47件
運命の再会の手前でも再会は再会だわ。
もっと続きが読みたいです🌌⭐️
籍が入ってなくて良かった。。 年の差もあり望まない婚姻などおぞましいよね😨 国雄さん〜久々の再会で紫野ちゃんを見つけてくれたんだ🥺 感動しかないよ(இдஇ)