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管野アリオ
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瑠璃マリコ
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#大人ロマンス
桃下結衣
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「……お兄ちゃんだって、この家を手放すのには反対のはずよ」
沈黙を破った私の声。
母は両手で冷め切った湯呑みを握りしめ、胸に言葉を溜める私に目を遣る。
「啓太は『母さんが決めたことなら仕方ない』『この家を含め、俺に何かを残そうだなんて考えなくていい』……そう言っとる。
兄ちゃんも責任を感じとるんだ。だからと言って『この家を任せろ』と、大きなことを言える立場じゃないと自分を責めとる」
「そんな……あの、誰よりも強かったお兄ちゃんがそんな弱気になるなんて……」
生気がごっそり抜け落ちたような目をして、声を迷わせる。
「……啓太は、信頼していた仲間に裏切られ借金を抱えた。ここに戻った頃は憔悴しきった廃人のようだった。……弱気になるのも無理ない」
えっ……仲間に裏切られて借金を!?
さらなる衝撃が私を襲う。
「……さっき、お兄ちゃんは生きる力をつけるために頑張ってるって言ったけど……何を頑張ってるの? 一体、どこにいるの? この家に一緒に住んでるんじゃないの?」
母に視線を据え、矢も楯もたまらず問いを連ねた。
けれども、母は私の問いに答えようとはせず、テーブルに両手をついたかと思うと、口を閉ざしたまま立ち上がった。
「お母さん?……」
追うように母を見て、眉根を寄せる。
「……啓太には言っとらんで」
「えっ?」
「病気のこと、詳しくは啓太に言っとらん。
あの子は優しい子だ。言ったら、もっと自分を責めるかもしれん。
……言うべき時が来たら母さんから話すで。亜紀からは言わんで欲しい……」
母は頼み込むように小さく頭を下げ、台所に向かって歩き出した。
「え、……お母さん!?」
母の背中を凝視し、慌てて立ち上がる。
「そこで、ちょっと待っといで。亜紀に使いを頼みたい」
そう言い残して姿を消した母は、漆の重箱を手に、すぐに居間へ戻ってきた。
「なに?……」
私は目の前に差し出された重箱に目を落とし、狐につままれたような顔をする。
「おはぎが入っとる。これを神谷さんの所に届けて欲しい」
「神谷さんって……材木屋さんの?」
「ほうだ。神谷さんところに兄ちゃんがおる。十六年ぶりに会っといで……兄ちゃんに……」
母は口元に笑みを浮かべ、戸惑う私の手のひらにそっと重箱を乗せた。
春の訪れをじっと待つ枯れ葉色の山頂には、霧のような薄雲がゆるく流れる。
山間から降りてきた鳥は大きく翼を広げ、太陽の光を受けながら、冷たい風に乗って空を漂っている。
私は母から借りた茶色のロングダウンジャケットを着て、両手で風呂敷に包まれた重箱を抱え、山を正面に砂利道の坂を上がる。
鶯色の風呂敷に何度も落ちるのは、私の大きなため息。吐き出した真っ白な息は頬をかすめ、冷え冷えとした空気の中に溶けていく。
「アブレーションか……」
カテーテルアブレーションによって、不整脈の原因となる部位を焼灼できれば、根治が期待できる場合もある。
煩わしい内服治療から解放される可能性もあるし、何より、突然起きる頻脈に怯えずに済むかもしれない。
治療そのものは数時間で終わることも多く、入院期間も比較的短い。
だけど……
カテーテルを挿入する血管から、治療する心臓の部位までの一体どこに問題があるというの?
処置中にどれだけのリスクがある?
処置後にどんな合併症が起こり得る?
母が恐れているように、カテーテルの操作が難しいことで、心穿孔や心タンポナーデなどの危険性が高まるのだろうか……
……予測するには、情報が足りなすぎる。
母の言葉を疑うこともなく、今までずっと薬で抑えられる程度のものだと思っていた。
あの母の性格を考えれば、こんな現状も予測できたはずなのに。
自分の専門分野でありながら、自分の母親の病状を知らずにいたなんて……なんて情けない。
「……医者失格だ。なんて薄情で……娘としても失格だ」
心の奥底から呟いて、再び深いため息を落とした。
とぼとぼと砂利道を上り、山を削って作られた広い平地に足をつける。
目の前に広がるのは、伐採したばかりの大きな丸太が何十本も並んだ広い敷地。
ここは、山で切り倒した原木(檜・杉)の皮を剥き、カット、乾燥、修正、加工、仕上げまでを行う木材工場。
「昔と全然変わってないや……」
幼い頃、兄と一緒に丸太によじ登って遊んでは、ここの社長である神谷親方に叱られたことを思い出し、ふっと息をついた。
土曜日の休業日とあって、原木が積み重なる貯木場に人の気配はない。
お兄ちゃん、ここにいるんだよね?
クレーンも動いてないし……神谷さんの自宅にいるってこと?
兄の姿を求め、社長の自宅がある加工工場の方向へ足を進める。
十六年ぶりの兄との再会。
私の記憶に残るのは、成人式を迎えたばかりの兄の姿。
三十六歳になった兄……何も六十歳になった姿を思い浮かべてみるわけでもないのに、その姿は想像できそうで想像ができない。
……私を見たら、お兄ちゃんは何て思う?
お母さんは、お兄ちゃんは自分を責めてるって言ってた。
もしかして、私が会いに来たら迷惑?
会いたくないって思ってる?
とりとめのない不安が湧き起こる。
工場が近づくにつれて、胸がドキドキする。
原木をカットする大きな機械がちらりと視界に入った時、山風に乗って聞こえてきたのは、木材を削る微かな音。
「……工場の奥に誰かが?」
もしかして、お兄ちゃん?
こくんと唾液を飲み込み、周囲を取り囲む機械と加工途中の材木に目を遣りながら、誰もいない工場の中を進んでいく。
だんだんと大きくなる機械の運転音。その音は途切れ途切れに響き渡り、音からして手作業で木材を削っていることが想像できた。
加工仕上げを終え、綺麗に積み上げられた材料が正面に見えたその時、木材を目の前にして腰を屈める男性の姿が見えた。
ツンツンとした短髪の男性は青い上下の作業服を着て、製品の出来栄えを確認しているのだろうか……
軍手をした手で木材を撫で、その手元を真剣な眼差しで見つめている。
「……」
私は深呼吸をして、その男性にゆっくりと近づく。
静止した機械。
高鳴る心臓の音。
風呂敷を握る私の手には、じんわりと汗が滲む。
工具箱らしきものを跨いだ瞬間、私の足音がコツッと小さく響いた。
すると、私の気配に気づいた男性は材木から目を離し、顔を上げ、大きく見開いた目を私に向けた。
時が止まったように重なった、二人の視線。
「……亜紀か?」
男性は見開いていた目を細め、低い声を漏らす。
「……うん、お兄ちゃん。亜紀だよ」
抱える重箱をぎゅっと抱きかかえ、熱くなる瞼に力を入れた。
重なり合う視線が、途切れた時間を憂うように微かに揺れる。
「……母さんから聞いたんだな。俺が帰って来てるなんて、驚いただろ」
兄は私を見る目を細め、静かな口調で言うと、すっと目を逸らして苦笑いを浮かべた。
「お兄ちゃんがいることを私に言ったのは、お母さんじゃないの。……遼から聞いたの」
私はその場で立ち止まったまま、木材から体を離し、ゆっくりとこちらに向かう兄を見つめる。
「遼?……ああ、俺達を助けてくれた亜紀の旦那か。……悪いな。妹のお前に迷惑かけて……」
重箱を抱え、目に涙を溜める私。
兄はそんな私の前に歩み寄ると、込み上げる思いを抑え込むように唇を引き結ぶ。
私の記憶に残る兄の顔は、日焼けした血色のいい肌に、彫りの深い引き締まった目鼻立ち。それでいて、笑うと頬に深い笑窪のできる柔らかさを持っていた。
しかし、目の前に立つ兄の顔には当時の勝気さは感じられず、年齢を重ねたことで気丈さは漂うものの、どことなくこけた頬に、これまでの苦労が感じられる。
父の借金を返済しようと一人都会に足を踏み入れ、苦海を渡ってきた。
立ち上げた事業で富を目の前にしたその矢先、仲間に裏切られ、夢と希望を絶たれてしまった兄。
「迷惑なんて……そんなことはいいの。
良かった……お兄ちゃんが無事に帰って来てくれて。もう、二度と会えないかと思ってた。
だから……」
家族と別れ、兄が歩んできた軌跡を想像すると、痛々しくて言葉が詰まる。
「会いたかった……お兄ちゃん」
ただその言葉だけを伝えると、堪えていた涙がぽろりと落ちた。
機械に囲まれた工場の冷たい空気の中に、二人の白い息が浮かぶ。
「……」
兄は口を閉ざしたまま両手にはめている軍手を外し、右手をそっと私の肩に乗せた。
コメント
1件
もうお兄ちゃんに会えたんだね…!久しぶりの再会シーン、すごく胸が締め付けられたよ。亜紀の「会いたかった」って一言に、16年分の想いが詰まってた。お互い苦労してきたのが伝わってきて、泣きそうになった。さくらさんの家族の描写はいつも優しくて、愛しさがにじんでるね。続きが気になるよ…!