テラーノベル
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タクシーを降りた私は、数メートル先に見える小さな灯りを見つめる。
サワサワと夜風に揺れる樹木の葉の向こうで、白い壁が光に包まれ、暗闇に浮かんで見える。
淡い月の光に照らされたその建物を見つめ、深く息を吐く。
すると、強張り続けていた全身の力が一気に抜けていくのを感じた。
春の訪れを待つ冷たい風が、体をすり抜ける。
私は肩を縮め、両手で腕を擦りながら、明かりが灯る方へと歩き出した。
入り口の扉の前に敷かれた枕木を踏むと、足音が草木の音とともに静かな闇へ響いた。
ブラインドが閉まっていて中の様子は見えないが、扉の両側にある細長い磨りガラスを覗き込むと、その奥に微かな明かりが見えた。
瞼を閉じ、大きく深呼吸を数回……。
凍えた指で、遠慮がちにインターフォンを押した。
「…………」
静寂が辺りを包んでいる。
草木の揺れる音だけが耳に届く。
……やっぱり、もう帰っちゃったのかな。
ため息とともに肩を落としたその時、磨りガラスに浮かんでいた光が僅かに揺らめくのが見えた。
心臓がトクッと小さな音を立てる。
鍵を開ける音がして、扉がゆっくりと開かれた。
私は再び大きく息を吸い込み、口元に精一杯の笑みを浮かべる。
「こんばんは。やっぱり来ちゃいました。良かった……もう帰っちゃったかと思った……」
「亜紀!? ……こんな時間に。もう来ないかと思ってたから、驚いたよ。……来てくれて嬉しいよ」
今泉さんは驚いた顔をしながらも声を弾ませ、目尻を下げて、温かな笑みで私を迎えてくれた。
薄暗い事務所に足を踏み入れ、遠慮がちに目だけで辺りを見渡す。
物音一つしない部屋。
「あの……柳さんは?」
「仕事が終わったから帰ったよ」
奥にあるプライベートルームへ向かって歩く今泉さん。
「そうなんだ。……今泉さんは?」
彼の大きな背中を見つめながら、すぐ後を追いかける。
「ん? ……ああ、仕事か。ちょうど片付いたから、帰ろうと思ってたところ」
「ごめんね、メールでは来ないと言ったのに……」
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俯きながら、小さな声を落とす。
「なんで謝るんだよ。会えて嬉しいに決まってるだろ? 実は、亜紀が来てくれるんじゃないかと思って待ってたんだ」
今泉さんは後ろに伸ばした手のひらを私の頭に乗せ、悪戯っぽく髪をクシュクシュと掻き撫でた。
今泉さんに肩を抱かれながら、明かりの灯る部屋に入る。
「こんな時間に家を出てきて大丈夫なのか? ご主人は家に……って、おい! この傷どうしたんだ!? それに……」
明かりに照らされた私の姿を見て、今泉さんが険しい目をして眉根を寄せる。
シャツの一番上のボタンは無く、口元と首筋には痣が残されている。
「…………」
私は怯えた目で、慌ててシャツを引き寄せ、胸元を隠す。
「何があった? ……まさか、それはご主人に……」
痛々しく乱れた私の身なりを見つめ、彼は声を詰まらせた。
「逃げて来たの……主人から」
視線を床に落とし、悲痛に満ちた声を絞り出す。
「逃げて来たって……ご主人がどうしてこんな酷いことを!?」
腕にも足にも付けられた、見るに堪えない痛々しい痣。
ベッドに押さえ込まれ、抵抗するたびに与えられた暴力だ……。
妻が夫を拒絶することなど許されないと、思い知らせるために刻まれた痕。
「何があったんだっ!」
彼は大きく目を見開き、愕然とした声を上げると、次第に顔を紅潮させていく。
「主人の浮気相手は、私の後輩だった。私、これ以上は耐えられなくて……あの人に、別れたいって言ったの。でも、別れるのは絶対に許さないって……」
俯いた瞳に涙を浮かべ、途切れ途切れに言葉を並べる。
今泉さんは口元を引き攣らせ、湧き起こる怒りに耐えるように口を噤み、じっと私の言葉を待っている。
「私……何も知らなかった。自分のことなのに、家族のことなのに、何も知らなかったの……」
そう……。
母が時々会いに来てくれることに甘え、忙しいことを理由に田舎へ帰りもしなかった私。
何が、一緒に名古屋で暮らそう?
何が、側にいれば心臓の病も私が診てあげられる?
母が一番つらい時に、側にいてあげられなかったのは私。
生まれ育った故郷を捨て、医者という肩書きと安住の地に身を委ねていた私は、誰よりも薄情者だ。
「結局、私の家族を守っていたのは主人だわ。……このまま、あの人から逃げるなんてできない……」
「亜紀の家族を守る? ……逃げられないって……」
私が放った支離滅裂な言葉に、今泉さんは眉間に皺を寄せ、首を傾げた。
「……亜紀、こっちにおいで。座って話をしよう」
扉の前で立ち竦む私の背中に、彼が優しく腕を回す。
「ごめんなさい……私……ここには来ちゃいけなかった……」
「えっ?」
「ここに私がいたら、今泉さんに迷惑をかけちゃう。ごめんなさい……やっぱり帰ります」
俯いたまま涙を拭い、部屋から逃げ出すように扉に手をかける。
すると、すぐさまグイと腕を掴まれ、その拍子に後ろへよろめいた身体が体温に包まれた。
「帰るって、どこに帰るんだよ」
「…………」
「……理由はどうであれ、亜紀をこんな酷い目に遭わせる男の所になんて、帰せるかよ……」
必死に怒りを抑えた低い声が、私の耳元で震えた。
「……でも、あの人に気づかれたら何をされるか分からない。あの人は目的のためなら手段を選ばない。そういう人なの……」
「だからってっ」
「いいのっ! いつかは終わる関係なら、自分にとって一番大切なものを壊すリスクなんて、背負う必要はないわ」
この関係は、いつかは必ず終わる……。
別れが来ると分かり切った恋愛ごっこなら、いっそこのまま――。
「だって、そうでしょ?」
最初から分かっていたのに、飛び込んだのは私。
一緒にいればいるほど苦しくなるなんて……。
零れ落ちる涙で視界が霞む。
大切な人の、大切なものを壊すことなんてできない。
こんなにも好きなのに……。
こんなにも好きだから……。
――もう、今泉さんと一緒にはいられない。
包んでくれる彼の温かな腕から逃れようと、体を捩る。
「リスクを背負うってなんだよ……」
耳に流れ込んできた低い声。
私を抱きしめる腕にグッと力が入る。
私はビクッと体を縮め、涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠しながら、止まらない涙を指で拭った。
コメント
1件
うわぁ……重くて切ない回でしたね。亜紀の「いつかは終わる関係ならリスクを背負えない」って台詞、すごく胸に刺さりました。好きだからこそ離れようとする矛盾が苦しい。今泉さんの「リスクを背負うってなんだよ」という低い声も、彼の本気を感じさせてぞくっとしました。物語の行方を考えると、この先どうなるのか気になって仕方ないです……。