週明けから、凪子の離婚に向けての動きがスタートした。
まずは土日に調べておいた引っ越し業者へ電話する。
社内ではまずいので、昼休みに会社の外から電話をかけた。
そして引越し業者には、離婚による引っ越しで夫がいないうちに手早く済ませたいと正直に話した。
すると、業者の担当者は、
「私共は、様々なご事情による引っ越しにも慣れておりますので、どうぞ安心してお任せ下さい!」
と言ってもらえた。
まさに『なつみんブログ』に書いてあった通りだ。
引越しの見積もりは、良輔が飲み会で遅い木曜日の夕方に頼んだ。
段ボールの持ち込みは事前に運び込むと同居人に知られてしまうリスクがあるので、荷物の詰め込みは当日にしましょうとの
アドバイスがあった。
凪子はそれに従う事にする。
とりあえず、引っ越しの土曜日までには持ち出す物の選別を済ませておいて下さいと言われたので、凪子は今日帰宅後から選別
を開始する事にした。
午後三時になると、凪子は会議室へ向かった。
実は朝のうちに堀内部長に面会のアポをとっていたのだ。
凪子が直々に部長と話をしたいと言ったのはこれが初めてなので、堀内も何事かと驚いているだろう。
約束の時間になると、凪子はノックをして会議室へ入った。
「失礼します」
「おっ、朝倉さんどうした? 君から改めて話があるなんて珍しいな?」
堀内部長と凪子は、凪子が良輔と付き合う前からの顔見知りだった。
凪子がまだ新人の頃、営業部と組んでの仕事が頻繁にあったので凪子はその当時から堀内に可愛がってもらっていた。
凪子と良輔が結婚の報告をした時も、心から祝福してくれた。
そして快く仲人も引き受けてくれた。
会社では父親のような存在であった堀内に対し、これから凪子が話す内容はとても過酷なものだ。
そしてその話の中での悪役は、堀内にとっては可愛い部下である良輔だ。
長年目をかけて来た部下が不貞を働いたと知ったら、きっと驚くに違いない。
凪子は堀内に対し申し訳ない思いで一杯になる。
凪子は新たな一歩を踏み出す為に、意を決して話し始めた。
「実は、良輔さんと離婚をしようと思っています」
その言葉を聞いた堀内は、思わず絶句する。
「ど、どういう事なんだ? 何かあったのか?」
「はい……良輔が浮気をしていました…」
堀内は更に驚く。
「それは確かなのか?」
「はい、証拠もあります」
凪子はそう答えてから写真数枚を堀内の前に置いた。
それは、絵里奈がポストに入れたラブホテルの写真と先日資料室で江口が撮った写真だ。
堀内は目の前の写真を見てかなりショックを受けている。
じっと凝視したまま動かない。
あまりにも刺激的な写真に言葉も出ないようだった。
そして、漸く口を開いた。
「これは会社の中か…?」
「資料室です。二人はそこでこの行為に及んでいました。これは社内の人が偶然目撃して撮影したのものを私にくれました」
「何という事だ!」
堀内は信じられないといった様子で呟く。
「で、相手の女性は?」
「商品企画部派遣社員の塩崎絵里奈です。このホテルの写真はうちのポストに入っていました。消印等がなかったのでおそらく
彼女が直接投函したと思われます。そして妻である私に、夫と交際している事をあえて知らせようと思ったみたいです。その証
拠に、このミラーの部分に彼女自身が写り込んでいます」
凪子がラブホテルのミラー部分を指差すと、堀内は前かがみになってそれを覗き込む。
そして呻くように言った。
「本当だ! しっかり本人が写っているじゃないか!」
「ですね…」
「…………」
堀内は呆然としていた。
あまりにも衝撃的な事実を目の当たりにして、頭が混乱しているのだろう。
少し落ち着いたところで、堀内は言った。
「で、今後君はどうするつもりなんだ?」
「弁護士を立てて離婚の準備を進めています。ただこの件に関して、まだ良輔には一切何も話していません。近々、良輔がいな
い時に家を出るつもりです。そして弁護士の先生から彼に連絡を取ってもらう予定です。ですから、部長もこの事は知らないふ
りをしていてくれると助かるのですが。引っ越しは土曜を予定していますのでせめてその時まで…」
「そうか、もうそんな所まで来ているのか。もう私に出来る事は何もないのだろうか?」
「お仲人までしていただいたのにこんな事になってしまい、本当に申し訳ありません」
凪子は悲痛な表情を浮かべて頭を下げる。
「いやいや君が謝る必要はないよ。謝らなければいけないのは良輔の方だ! あいつは一体何をやっているんだっ! 今すぐに
ここへ連れて来て説教したい気分だよ…」
部長もかなり怒っている様子だった。それはそうだろう。ずっと可愛がっていた部下が不貞を働いていたのだ。それも社内で
だ。
仲人までしてやったのに、その部下は妻を裏切り自分をも裏切り別の女と社内でセックスをしていたのだ。
凪子は申し訳ない気持ちで思わず涙が溢れてくる。
まさか自分がこんな形で、仲人である堀内に離婚の話をするなんて、数ヶ月前には思ってもいなかった。
凪子が手で涙をぬぐうのを見て、堀内が確かめるように言った。
「離婚する事に迷いはないんだね? もしほんの少しでもやり直したいと思う気持ちがあるなら、私が間に入って……」
「ありませんっ!」
凪子は堀内の言葉を遮るようにきっぱりと言った。
凪子の強い意思を感じ取った堀内は、諦めたような表情をした。
「分かった。もう私は何も言わないよ。ただ、弁護士を通して離婚の話し合いをするにしても、二人は同じ会社なんだ。社内で
バッタリ会う事は避けられないだろう。その時何か困った事があればいつでも私に言いなさい。遠慮せずに必ず言うんだよ!」
その言葉を聞いて、さらに凪子の頬に涙が伝う。
今は他人の優しさが心に染みる。
「ありがとうございます。あと…その相手の女性は?」
「即刻解雇だろうな。社内であんな行為をしたんだ。どうやったって言い逃れは出来ない。派遣会社にもきちんと報告をするつ
もりだ」
それを聞いて凪子はホッとした。
あんなふしだらな女には、自分が愛する会社にも同じフロアにもいて欲しくない。
「君も辛かっただろうね。でももう嫌な思いはさせないようきちんと対処するから、私を信頼してくれ」
「ありがとうございます」
凪子は涙をハンカチで拭きながら、堀内に頭を下げた。
そこで凪子は再度堀内に頼んだ。
土曜日の引っ越しが終わるまでは、この事は黙っていて欲しいと。
堀内は、もちろんそれを了承してくれた。
そして、
「心配するな! 悪いようにはしない」
と、凪子を安心させるよう優しい口調で言った。
話が終わり、凪子は会議室を出た。
化粧室に寄り、泣きはらした目をチェックしてから自分のデスクがある階へ戻る。
その時、廊下の向こうから絵里奈がすました顔をして歩いて来るのが見えた。
凪子に気付くと、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
その時凪子は、ちょうど廊下にいた同僚に話しかけ、絵里奈に気付いていないふりをする事に成功した。
(こんな気苦労はもうたくさん! とっととクビになればいいのに!)
凪子はもう少しの我慢だからと自分に言い聞かせ、なんとか気持ちを落ち着けてデスクへ戻った。
(あと少しの辛抱よ! もうちょっとしたらあの二人には制裁が下るわ! そうすれば私は自由よ!)
凪子はそう思いながら、午後の仕事へ集中した。
そして木曜日の夕方、凪子は急いで家に帰り引越し業者が来るのを待つ。
良輔は今夜営業部での飲み会があるので、帰りは午前様だろう。
引越し業者の見積もり担当者が来ると、すぐに部屋の中へ案内し持ち出す荷物についての説明した。
結婚の時に揃えた家具や大きな家電類は、全て置いていくつもりだった。
自分でコツコツ集めた食器やキッチングッズにも未練はない。
とにかく良輔との思い出が染みついている物は、全て置いていく事にした。
その代わりに、新居へ引っ越したら少しずつお気に入りを揃えていく予定だ。
自分の為だけの本当にお気に入りの品をだ。
見積もりの結果、凪子が持って行く荷物のメインは服や靴、バッグなどの衣類がほとんどなので、運び出すのにはそれほど手間
がかからない事が分かった。
予想よりもコンパクトな引っ越しになる予定で料金も安く済みそうだ。
見積もりが終わると、凪子は業者を玄関まで見送る。
「ありがとうございました! では土曜日の朝九時にまた伺います!」
スタッフは爽やかな笑顔でそう言うと、一礼をしてから玄関を出て行った。
全てが順調に進んでいた。動き始めると、一気に加速する。
この家で仮面夫婦を演じるのも、あとほんの少しだ。
凪子はその先に待っている誰にも脅かされない穏やかな日々を心待ちにしていた。
コメント
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部長も仲人をした凪子さんからの突然の呼び出しには驚きだけど、話の内容がさらに驚きだよね😰 でも意を決して言ってやり直すつもりなら…なんて言われても即却下だよね👎 とりあえず部長も味方につけてあとは土曜日の引っ越しを待つのみ🙏 良輔も絵里奈もその日を邪魔しないでよね💢💢