そしていよいよ引っ越し当日の朝がやって来た。
良輔は朝早く起きて、ゴルフへ行く準備をしている。
良輔が早朝からゴルフへ行く日は、凪子はいつもベッドに入ったままだった。
しかしこの日は起きて朝食を作ってあげた。
「起きなくても良かったのに」
良輔は凪子が起きて来たので、驚いていたようだった。
「ううん..目が覚めちゃったからいいのよ」
凪子は言葉ではそう言いながら、心の中では、
『立つ鳥跡を濁さず』
という言葉を思い浮かべ密かにほくそ笑んでいた。
凪子は、トーストとスクランブルエッグ、そしてサラダの朝食をテーブルへ並べる。
この浮気男に作る料理は、これが最後なのだと思うとせいせいした気分になる。
今後家事をする時は全て自分一人の為、そう思うと嬉しくて笑いがこみ上げてくる。
凪子は朝食を食べている良輔の前に座り、じっとニュースを見ていた。
「凪子は食べないのか?」
「うん…私はもう一回寝るから…」
その時、凪子の頭にこんな思いが過る。
結婚した当初は、互いに見つめ合い微笑みを交わし合いながら毎朝食事をしていた。
交際していた時は、互いの家を行き来する不便な生活だった。
しかし結婚してからは、同じ屋根の下だ。
新婚時代は、ただそれだけの事が嬉しかった。
毎日一緒に朝食を食べ、毎日同じ家に帰る。ただそれだけで幸せだったのだ。
そんな幸せは、つい一年くらい前までは続いていたように思う。
それなのにいつからこんな事になってしまったのか。
そこで凪子はハッとする。
(私ったら少し感傷的になり過ぎているみたい。家を出る直前は『情』によるまやかしに騙されやすいと『なつみんブログ』に
も書いてあったじゃない。騙されてはダメよ、凪子! 思い出すのよ、あの二人の淫らな写真と声を。今目の前にいるこの男
は私を欺いていたのよ)
そこで凪子は正気に戻った。
食事を終え歯磨きを済ませた良輔は、ゴルフバッグを担ぐと玄関へ向かった。
「今日は帰りは7時くらいかなー? 夕食は家で食べるからよろしく」
良輔は今日はゴルフだけで絵里奈と会う予定はないようだ。
(残念ね、早く帰って来てもご飯はないのよ)
凪子はそう思いながら良輔の背中に向かって冷たい笑みを投げかける。
そして声だけはいつもの調子で言った。
「わかった。行ってらっしゃい、気をつけてね」
「行ってくるよ」
良輔は玄関から出て行った。
リビングから玄関へ出て行くまでの間、良輔は凪子と一度も目を合わせなかった。
(私達の結婚生活がもしこのまま続いていったとしても、きっと小さな綻びが徐々に広がっていくのかもしれない)
家を出る際に妻と一度も視線を合わせない。
その夫の行動からは、良輔の本心が透けて見えたような気がした。
(どうせ別れるなら、まだ夫婦の歴史が浅いうちがいい…)
凪子はそう自分に言い聞かせると、家を出る準備を始めた。
良輔が食べた食器をサッと片付けた後、いよいよ本格的に引っ越しの準備に取り掛かる。
持って行く服やバッグを全てクローゼットから取り出し、ベッドの上に並べた。
あの日良輔に買って貰ったワンピースは、もちろん置いていく。
下着類は衣装ケースに入っていたのでケースごと持ち出してもらう事にする。
ドレッサーの引き出しの化粧品や小物類は全てまとめて紙袋へ入れ、忘れないように玄関近くへ置いておく。
ドレッサーの上にあったジュエリーケースは独身時代から使っているお気に入りなので、持って行く事にした。
ただし、良輔から買って貰ったジュエリーやアクセサリー類は全て置いていく。
親友の紀子は、
「返さないで売って換金しなよ!」
と言っていたが、凪子は良輔の思い出が染みついたものは何一つ新居に入れたくはなかった。
凪子は左手薬指にはめていた結婚指輪とルビーの指輪を引き抜くと、結婚指輪はダイニングテーブルの上へ、
そしてルビーの指輪は右手の薬指へ付け替えた。
急に軽くなった左手の薬指に違和感を覚えたが、それも徐々に慣れるだろう。
凪子は最後にシューズボックスの前へ行くと、自分の靴を棚から全て出した。
靴はどれも自分で買った物なので、このまま持って行く。
ちょうどその時、インターフォンが鳴った。
引越し業者が来たようだ。
凪子はドアを開けると、スタッフ達に早速作業に取り掛かってもらう事にした。
まずは、凪子がまとめてあるものを段ボールへ詰める作業が始まる。
詰め込んだ荷物は、次々とスタッフの手により運び出される。
洋服を段ボールへ詰める際、女性スタッフが一人ついてくれたので凪子はそのスタッフと共に作業した。
そのお陰で荷造りはあっという間に終わりトラックへ運び込まれた。
きびきび動く若いスタッフのお陰で、引越しに費やした時間は二時間もかからなかった。
「では新居の方へ向かいますので、あちらでまたよろしくお願いします」
スタッフのリーダーは爽やかな笑顔でそう告げると、トラックで一足先に凪子の新居へ向かった。
一人になった凪子は、家の中を見回す。
大きな家具や家電はそのままなので、一見すると特に変わった様子はない。
良輔が家に帰っても、凪子が引っ越した事にすぐには気づかないだろう。
凪子の荷物が全てない事に気付いたら、良輔は一体どう思うだろうか?
凪子は少し感傷に浸っていた。
しかし、すぐにその思いを振り払うと、もう一度部屋を見て回り忘れ物がないかをチェックした。
もし仮に何かを忘れたとしても、凪子はこの部屋に二度と戻るつもりはなかった。
一通りチェックを終えた凪子は、
「さようなら…」
と呟きテーブルの上に用意していたメモを置く。
『鍵はポストに入れておきます。今までお世話になりました。さようなら。凪子』
そして凪子はメモの上に結婚指輪と婚約指輪を載せ、もう一度部屋を見回してからマンションを後にした。
コメント
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凪子さんの引越しに良輔は何を思う…⁉️