翌朝、詩帆は画材を持って海へ向かった。
砂浜へ着くと海には涼平の姿はなかった。
涼平がいないとわかり、詩帆は自分が少しがっかりしている事に気づく。
今までそんな気持ちになった事がなかったので、自分でも驚いていた。
詩帆は慌てて頭から涼平の事を振り払うと、いつものようにレジャーシートを広げその上に座った。
そして準備を終えるとすぐに絵を描き始める。
今日の海はとても穏やかだった。
波は小さく波音も静かだ。
こんな凪の日はサーフィンは出来ない。だから涼平はいないのだ。
昨夜は雲一つなく空は澄んでいた。だから星が綺麗だったのだ。
その状態が朝まで続いていたのだろうか? 今朝も雲がほとんどない。
詩帆は静かな海と青く澄んだ空をスケッチブックへ写し取っていった。
下地になるデッサンが終わると、今度は色を載せていく。
波のない海を表現するのは結構難しい。
詩帆は集中して無言で筆を動かし続けた。
その時、後ろの方で砂の上を歩く音がした。
詩帆の耳にその音は聞こえていたが、今は繊細なラインに色を載せているので筆先に集中していた。
漸くその部分が仕上がると、ホッと息を吐いて筆を置く。
その時後ろに人の気配がしたので振り返った。
するとそこには涼平が立っていた。
「おはよう。凄く集中していたね」
涼平は眩しいくらいの爽やかな笑顔で言った。
「おはようございます。昨日はご馳走様でした」
「昨日は楽しかったね。あ、はい、これ」
涼平は手に持っていた缶コーヒーを詩帆に渡した。
涼平は詩帆の分までコーヒーを買ってくれていたのだ。
詩帆は温かい缶コーヒーを受け取ると礼を言った。
「ありがとうございます」
それから画材を少しずらし、涼平に座るよう促した。
涼平はありがとうと言って詩帆の隣に腰を下ろした。
二人は缶コーヒーを飲みながら、しばらく海を眺めていた。
耳には優しい波音が響く。
目の前の波打ち際には、波で泡立った海水が朝日に反射してキラキラと輝いていた。
時折海鳥が海面ギリギリをかすめていく。
爽やかなこの風景を眺めていると心が洗わるようだ。
「今日は波があまりないからサーフィンはお休みなのですね?」
「うん。これじゃあどうしようもないよな。さすがに誰も来ない」
そして涼平はコーヒーを一口飲む。
すると詩帆が静かに話し始めた。
「うちの亡くなった兄が昔私にこう言ったんです。『海にはさまざまな青色がある。一種類の絵の具では表現出来ないほど海は
瞬時に色々な青に変化する』って。それはサーフィンの最中にそう見えるのでしょうか?」
その言葉を、涼平はどこかで聞いたことがあるような気がしたがそれがどこでだったかは思い出せなかった。
そして詩帆に答える。
「うん…波待ちをしている時なんかにね、太陽光が反射して海面が様々な色に変化するんだよ。お兄さんはきっとその時の事を
言ってたのかな?」
涼平の言葉に、詩帆は納得したように頷く。
「兄は、その後こんな事も言ったんです。『色んな青がある中で、詩帆が好きなたった一つの「青色」がいつか見つかるといい
な』って」
「その『特別な青色』は見つかったの?」
「はい。見つかりました。ほら、この間書店で私が立ち読みしていた写真集があったでしょう? あの海の色なんです。その色
は『セルリアンブルー』っていうんです。でも日本の海だとなかなかあの色は難しいみたいで…。沖縄の方だったら見られるか
もしれませんが」
詩帆は少し残念そうにそう言った。
それから腕時計を見て「あっ!」と叫んだ。
「私、今日早番なんです」
詩帆が慌てて立ち上がったので涼平も立って片付けを手伝う。
片付けを終えた詩帆は、画材が入った袋を肩にかけてから言った。
「じゃあまた。コーヒー馳走様でした」
詩帆は微笑んでペコリとお辞儀をすると、自転車の方へ走って行った。
涼平は、「気をつけて!」と叫ぶと走り去って行く詩帆の後ろ姿を見送った。
詩帆の姿が見えなくなると、涼平は再び海へ視線を戻す。
「セルリアンブルーか……」
涼平はそう呟くと、ポケットから携帯を取り出しその色を検索してみる。
すると携帯の画面には、ほんのり緑がかったブルーの美しい海が映っていた。
コメント
1件
詩帆ちゃんも涼平さんのいない海は寂しいね😔 きっと涼平さんも同じだと思うよ😊 海を介して2人の波長がとても近く感じるし、詩帆ちゃんのお兄さんのことも2人にとってとても大切な気がする🌊