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晃司と颯馬の足音が遠ざかっていく。
ドアが閉まる音がした瞬間、世界から音が消えた。
残された空気だけが、鈍い痛みを孕んでいる。
遥はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
「――日下部も、こっち側だって」
あの一言が、耳の奥にこびりついて離れない。
声の温度も、口調の軽さも、どれも現実だった。
晃司は嘘をつくような人間ではない。
それを知っているからこそ、怖かった。
ベッドに腰を下ろし、俯いた。
掌が震えている。
冷たいわけでも、熱いわけでもない。
ただ、自分の中に入り込んだ言葉が、体温を少しずつ奪っていく。
――日下部が、自分を見ていた目。
――日下部の、触れようとして躊躇う指先。
その一つひとつを思い出すたびに、混乱が深まる。
あの夜、日下部は確かに言った。
「分かるかどうかじゃない。聞きたいんだ」
それは優しさだったはずだ。
けれど今、晃司の声がそれを上書きする。
“お前の味方なんか、いないんだよ”
そう囁かれた気がした。
胸の奥がずしりと重く沈み、息が詰まる。
逃げ場のない夜だった。
窓の外では、風が枝を打つ音がしていた。
遠くで車のエンジンがかすかに唸る。
それらの現実の音が、かえって夢のように遠い。
遥は、顔を両手で覆った。
目を閉じると、日下部の声と晃司の声が、同じ響きで重なって聞こえる。
その瞬間、体の芯がきしむように痛んだ。
「違う……」
小さく呟く。
けれど言葉には力がなかった。
どこかで、信じたかった。
“日下部だけは違う”と。
その信じたい思いこそが、今は最も脆い場所を突いてくる。
晃司の声が心の奥で笑う。
“見えてないのは、お前の方だ”
息が荒くなる。
胸の奥で、波のように言葉が反響する。
“お前が選んだ奴が、お前を壊す”
“どうせ誰も、お前を守れない”
“守るふりをするのが、一番残酷なんだよ”
頭を振っても、声は消えない。
まるで体の内側に、晃司たちの影が入り込んでいるようだった。
痛みよりも、静かな絶望がゆっくりと広がっていく。
――日下部がもし本当に、彼らと同じだったら。
その仮定を考えるだけで、喉が詰まる。
それでも、確かめずにはいられないと思ってしまう。
信じることも、疑うことも、どちらも地獄だ。
部屋の天井を見上げる。
灯りを落とした空間の中で、白い影がわずかに揺れた。
まるで自分の心そのものが、薄い膜のように震えている。
――もう、誰も信じるな。
晃司の声がまた、頭の中で響いた。
その声に、遥はようやく小さく呟く。
「……うるさい」
その言葉には、かすかな抵抗の響きがあった。
けれど、それ以上は続かなかった。
心の奥で、何かがすでに折れている。
やがて、外の風が止む。
夜は静まり返り、世界の全てが息を潜めたようだった。
遥は布団に身を沈め、目を閉じる。
まぶたの裏で、日下部の姿が浮かぶ。
あの夜、月明かりの下で見た表情。
触れられそうで、触れられなかった距離。
――それでも。
最後の力で、その記憶に縋った。
晃司の声に上書きされる前の、日下部の静かな眼差し。
その一瞬だけが、闇の中で微かに光を放っていた。