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「あれは……三年前の宴会の席でのことです。
亜紀先生、酔って私に言いましたよね?『私のせいで子供ができない。彼は子供を望んでるのに、申し訳ないと思う』――って」
彼女は落ち着き払った声で言い、差し出していたフィルムをゆっくりとバッグの中に収めた。
茫然自失となった私は声も出ず、よろめきながら後ずさりし、壁に背中をつけた。
「その言葉を聞いたとき、思いついたんです。だったら、私が彼の遺伝子をこの世に残してあげようって」
なっ!? ……
私が彼の遺伝子をこの世に残してあげよう!?
妻がいる男の子供を望んで宿し、当然のように産み育てるつもり?!
我が耳を疑う言葉にただ愕然とし、背筋にゾクッと冷たい戦慄が走った。
「……楓ちゃん、あなた本気で言ってるの? もし本気だとしたら、異常よ……」
口元を引き攣らせ、乾いた喉から声を絞り出す。
「どこが異常なんですか? 愛してる男の遺伝子を残したいと思うのは、女として当然のことでしょう?
……男が自分の遺伝子を残そうとするのもまた、自然の摂理です。
遼一さん、自分の優秀な遺伝子を残せないことだけが悔やまれるって、そう言ってました」
飄々とした態度で私を見据え、平然とした口調で言葉を返す彼女。
「……どうして遼があなたにそんな……」
「偶然聞こえたんです。あの人が他の先生にそう話してるのを。
亜紀先生、妊娠しにくい体なんでしょ? それに、妊娠しても継続するのが難しいって。
今までに数回流産したって、あの人から聞きました。産まれてきたかったでしょうに……可哀想な赤ちゃん」
私の声を遮って放たれた、冷酷な言葉。
産まれてきたかったのに……。
……可哀想な赤ちゃん?
遼と私の赤ちゃん。
欲しくて欲しくて、たまらなかった。
私だって産んであげたかった。
この手で抱きしめて、いっぱい愛を注いであげたかった。
――でも、
心臓の鼓動が聞こえる前に、私の身体から消えてしまった小さな命。
そしていつしか、その心の痛みに耐えきれず、諦めてしまった夫婦の希望の光。
絶望を絆に変えられなかった、乗り越えられなかった、臆病な二人。
――この現実は、初めから望んだわけじゃない。
「酷い……そんな言い方をするなんて……」
酷薄な笑みを浮かべる彼女を睨み付ける。
へばりつくようにして壁につけていた手のひらは、憎しみを噛みしめるようにゆっくりと握り込まれていく。
壁紙の真っ白なクロスに爪が食い込み、ギギギッと小さな音を立てた。
「お気の毒ですが、あなたの負けですよ。亜紀センセ。彼の永遠の愛を手に入れたのは、私ですから」
私の表情を見つめ、笑い飛ばすように投げられた彼女の声。
「永遠の愛……」
『子供ができたから、遼があなたを選ぶってこと?』そう言おうとした途中で、ある疑問が頭に浮かんだ。
遼はいとも簡単にこの娘を捨てようとした。
『もう遊びは終わりだ』……そう言った。
――遼は楓に何を望んでいたの?
「……遼があなたとの子供を望んでたってこと? さっき言った、“提案”ってなんなの」
眉間のしわをさらに深め、地を這うような低い声で問いかけた。
「まさか。あの人が、愛人に子供を産ませようなんて本気で考えるはずがない。誰よりも自分が一番大事な、ナルシストなんだから」
躊躇いもなくきっぱりそう言って、彼女は「あははっ」と笑い声を上げた。
「じゃあ、さっきの……」
「最初はね、私が誘ったの。『天才心臓外科医の優秀なDNAを残すプロジェクト。私が協力してあげる』って」
「DNAを残すプロジェクト?! ……馬鹿げてる。そんな誘いに、彼が乗ったというの?!」
真っ赤に顔を上気させ、声を荒らげる。
「さっきも言ったでしょ? それは、私という『頭のイカレタ女』に『興味』を持たせるきっかけに過ぎない。
普通の男なら不気味がって避けるでしょうけど。……でも、彼は違った。
天才は好奇心旺盛で、未知の世界が好きでしょ? 危険な香りがするモノほど摘み食いしたくなる。
案の定、彼は私を『面白い女だ』と言って、興味を示してくれた。……私が、自分の妻の知人だと知らずにね」
「えっ……知らずに?」
「そうよ。打ち明けたのは私を抱いて……5回目くらいだったかしら。
その時の彼の顔、さすがに驚いてたけど……仕方ないわよね? 知ったからって引き返せない。もう、食べちゃったんだから。妻の『友人』を」
彼女は物事すべてを小馬鹿にするような顔をして、ピンクのルージュを引いた唇を笑みで満たした。
この娘……。
なんて恐ろしい女なの……。
私だけじゃない。
遼までこの娘の手のひらで転がされていたなんて……。
子供ができる可能性が高い日を……。
排卵期を……。
「……狙って会っていたのね。この日が来るのを、ずっと待ち望んで……」
彼女の足元に力なく視線を落とし、愕然とした私の口から呟きが零れる。
「あらっ。鈍感な亜紀先生にしては上出来な洞察力。
……そうよ。彼は危険な関係が生み出す興奮に溺れ、私の体内に欲望を放ち続けた。……安全日だという、私の言葉を信じてね」
彼女の冷淡な声が脳内を這い回る。
「なんてことを……」
勝ち誇ったように高笑いをする女を凝視し、身体の芯から身震いした。
「楓ちゃん、あなたは最低な人間よ。……妊娠を……子供を恋愛の道具に使うなんて……」
目の前に立ちはだかる悪女を見つめ、心の底から声を押し出した。
吐き出した声の代わりに、ゴクリと生唾を飲み込む。
互いの呼吸まで聞こえてしまいそうな静寂の中に漂う、険悪な空気。
私の声を聞いた彼女は目を見開き、黙り込んだまま大きく口を歪めた。
「道具なんかじゃないわ。彼を愛した、彼に愛された永遠の証。この子は、彼から永遠の愛を貰えるの……」
開かれた唇から漏れ出た、低い声。
私をキッと睨み付け、彼女は再び唇を引き結んだ。
「永遠の愛が貰える? ……どういう意味?」
「……たとえ、彼が私を必要としなくなっても、私を忘れても、彼はこの子を忘れることはない。
人は自分の最期を悟った時、この世で一番大切な者を思い偲ぶ。
……彼が最期に思うのは、あなたでも、私でもない。彼の中に残るのは、自分の血を受け継いだこの子よ。私の代わりに、この子が彼の永遠の愛を手に入れてくれる」
彼女は勝ち誇った笑みを浮かべ、命の宿る下腹部を愛おしそうにゆっくりと撫で下ろした。
彼女の姿を見て、身の毛がよだつ。
完全に狂ってる……。
愛への執着心は、こんなにも人の心を狂わせてしまうの?
凍りつくような衝撃に、視界がぐらりと大きく揺れた。
「亜紀先生、あなたには私の気持ちなんて一生理解できない。この苦しみも、憎しみも、愛し方も、……そして、子供を授かる喜びも」
いっそのこと閉ざしてしまいたいと願う聴覚に捩じ込まれた、彼女の声。
落としていた視線を上げ、不快な笑みを浮かべる彼女を凝視する。
「それは……どういう意味? ……子供を産めない私が、哀れだとでも言いたいの?」
急激に血が上る。
あからさまに侮辱され、思わず語気が荒くなった。
「哀れだと思ってますよ?
だって、女に生まれながら愛する人の子孫を残してあげられないんですから」
女に生まれながら子供を残せないのが……哀れ……。
彼女の声が、頭の中でこだまする。
怒りの中に入り混じった、深い悲しみ。
悔しい……。
どうしてこんな思いを、私がしなきゃいけないの? ……
ダメ。泣きたくない……。
こんな女の言葉で泣きたくない!
堪えようとする瞳に涙が滲む。
「信じられない……ナースのあなたが、そんな冷酷非情な言葉を口にするなんて……恥を知りなさいっ!」
「恥? ……それを言うなら、亜紀先生は世間のいい笑い者ですね。旦那が同じ職場のナースと不倫して、子供まで作られちゃったんですから。私は構いませんよ? 病院中の噂になったとしても」
煮え立つ血が、首から上へ一気に駆け上がる。
「……どこまで歪んでるの? あなたは。
これ以上、私を馬鹿にするのは許さないっ!」
身を委ねていた壁から離れ、怒りを露わにして彼女へ足を踏み出した。
彼女は私を睨み返したまま、一歩後ずさりをした。
――その直後、
ガチャ……ガチャガチャ……。
鍵穴から聞こえる金属音。
そんな……遼が帰ってきた?!
上りつめた血が、一気に引いていく。
苦く感じる唾液を飲み込み、青ざめた顔で咄嗟に正面へ視線を移す。
その視界に映り込んだのは、開かれようとする扉を見つめ、薄ら笑いを浮かべている彼女。
ゆっくりと開かれていく扉。
「……亜紀!? おまえ、帰ってたのか……」
玄関に突っ立つ私を見た瞬間、夫は目を丸くして言葉を詰まらせた。
「こんな所で何して……っ」
私の正面に立つ女の姿が視界に入った瞬間、夫の顔までも一瞬にして凍りつく。
次第に大きく歪んでいく彼の口元。
「何故おまえがここに……」
害虫を見るかのような目をして、低い声を漏らす夫。
「お帰りなさい、遼一さん。私、お祝いに来たの。亜紀先生の論文のお祝いと……
私達、二人のお祝いに」
彼女は彼の反応などお構いなしにそう言って、赤いリボンが結ばれたシャンパンを傾け、満面の笑みを見せた。
コメント
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うわ……この展開、心臓がバクバクしました。楓さんの執着心の描き方が本当に怖くて、特に「永遠の愛を手に入れるために子供を産む」っていう考え方にゾッとしました。亜紀先生が泣きたくないと必死に堪えるシーンが切なすぎて……。あと夫が帰ってきた瞬間の3人の空気感、想像するだけでやりきれないです。続きが気になります!
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桃下結衣
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柏木さくら
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ruruha
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瑠璃マリコ
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