教室のざわめきが消えたあとも、耳の奥に残響がこびりついていた。
「親に殴られてるんだってな」
「親友に売られるとかウケるわ」
その声が、何度も何度もリフレインする。
空っぽの教室に座っているはずなのに、まだ笑い声に囲まれているようだった。
隣の日下部は、黙ったまま視線を逸らしていた。
一度もこちらを見ようとしない。
それだけで遥には分かる。――もう、伝わってしまったんだ、と。
(……裏切った、って思われてる)
胃の奥が冷たい鉄で締めつけられる。
息をするたびに胸のどこかが軋んだ。
守るために言ったはずだった。
狙いは自分に向いてほしい一心で。
それなのに結果は真逆だ。
日下部の秘密がさらされ、彼は笑い者になった。
(俺は……守れなかった)
(いや、それどころか……壊したんだ)
喉の奥から言葉が出そうになる。
「仕方なかったんだ」「無理やり言わされたんだ」――そう言えば、少しは伝わるかもしれない。
でも、その言葉を口にした瞬間、日下部はさらに惨めになる。
「友達に守られてる」「庇われてる」――そんなふうに聞こえてしまう。
だから言えなかった。
結局、沈黙するしかない。
けれどその沈黙は、日下部にとって「やっぱり本心で売ったんだ」という肯定にしか見えないのだろう。
目を逸らされるたび、距離が遠のいていく気がした。
(俺が何をしても……もう全部裏目に出る)
拳を握っても、爪が掌に食い込んでも、何も変わらなかった。
守りたいのに守れない。
「俺が何でもするから」と言い続けた意味はどこにも残らなかった。
喉の奥で「ごめん」とつぶやいても、それは届かない。
日下部は振り向かない。
謝罪の言葉など、ますます彼を惨めにするだけだから。
――じゃあ、どうすればよかったんだ?
沈黙の中で問い続ける。
けれど答えは出ない。
ただひとつ確かなのは、自分の存在が日下部を傷つけているという事実だけだった。
(俺がいなければ、日下部はこんなふうに笑われなかった)
(俺さえいなければ、あいつは普通に生きられたんじゃないか)
思考が黒い泥に沈んでいく。
守るために必死だったはずなのに、最後に残ったのは“守れなかった自分”への嫌悪だけだった。
机に額を押しつける。
もう顔を上げられない。
上げたところで、日下部の視線には拒絶しかないと分かっているから。
心臓の奥で、鈍い痛みが続いていた。
それは「裏切った」と思われていることへの痛みであり、同時に「本当に裏切ったのかもしれない」という疑念の棘でもあった。
(……もし本当にそうだったら?)
(俺は結局、自分を守るために、日下部を差し出したんじゃないのか?)
頭を振って否定しようとする。
だが胸の中で「違う」と言えば言うほど、揺らぎが増していく。
――守れなかった。
――裏切ったと思われた。
――もう信じてもらえない。
その三つの事実が、遥を完全に押し潰していた。
(……いなくなりたい)
声にならない声が、喉でくぐもった。
それが遥の心からの願いになりつつあることに、自分自身でも気づいていた。
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