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――翌朝。
私は気怠さを感じながら、ベッドから身を起こした。
肌寒い部屋の空気に触れた身体が、ぶるりと震える。
重い足取りで鏡台の前に立ち、椅子に掛けていたブランケットを肩へ羽織った。
正面の鏡に映る、腫れぼったい瞼の自分。
「酷い顔……」
見苦しい姿を見つめ、深いため息をつく。
ふと鏡台へ置いた携帯電話を手に取ると、メールの着信表示に気づいた。
送り主は――
「……楓ちゃん」
その名前を目にした瞬間、心臓が不吉な拍動を打つ。
肩から滑り落ちそうになったブランケットを引き上げ、大きく息を吸ってからメールを開いた。
【亜紀先生、おはようございます。
昨夜は申し訳ありませんでした。
職場でのストレスもあり、つい飲み過ぎてしまって……。
私、亜紀先生に失礼なことを言いませんでしたか?
昨日のことは、どうか忘れてください】
職場のストレス……?
自分の言ったことを覚えてないの?
オペ室でのことも、酔って覚えてない?
「……そんなこと、ある?」
並んだ泣き顔の絵文字を見つめ、眉を寄せた。
「楓ちゃん……
どっちが本当のあなたなの?」
深いため息をつき、携帯をバッグへしまう。
遮光カーテンを開けると、窓から差し込む朝の光が部屋を満たした。
眩しさに目を細め、大きく息をついてからダイニングキッチンへ向かう。
私が扉を開けた直後、珍しく夫の方から声を掛けてきた。
「おはよう」
すでに身支度を終えた夫は、珈琲カップを片手に新聞へ視線を落としている。
「おはよう……ソファーで熟睡できた?」
腫れた瞼に気づかれないよう、横髪をさりげなく頬へ流しながらキッチンへ向かった。
「ああ、よく眠れた」
夫は新聞をめくりながら短く答えた。
「そう……。朝食は? トースト焼こうか?」
「いい。要らない」
「サラダは? レタスとトマトがあるから……あ、コーンもある」
冷蔵庫からコーンの缶詰を取り出し、カウンターへ置く。
「それも要らない。昨日オペした患者が気になるから、先に出るわ」
夫は素っ気なくそう言うと、新聞をたたんでテーブルの隅へ置き、珈琲を飲み干して立ち上がった。
「そうなんだ……。行ってらっしゃい。気をつけて」
右手にレタス、左手にトマトを持ったまま、ジャケットを羽織る夫の背中を見つめる。
「ああ、それと。今夜は鯖の味噌煮がいい」
「え……鯖の味噌煮?」
「夕飯だよ。今夜は早く帰れそうだから作ってくれ。
亜紀の作る煮魚は、最高に旨いからな」
夫は目を丸くする私を横目で見て、口元に小さく笑みを浮かべると、そのまま玄関へ向かって歩き出した。
「う……うん、分かった。私もなるべく早く帰るから」
戸惑いながら、立ち去る夫の背中へ返事を投げた。
「おう、頼む」
遼は背中を向けたまま、「行ってきます」と軽く手を振り、ダイニングキッチンの扉を閉めた。
両手から離すタイミングを失っていた野菜を、ゆっくりとテーブルへ置く。
そして、彼が使っていた珈琲カップへ視線を落とした。
亜紀の作る煮魚は、最高に旨い?
夫にそんなことを言われたのは初めてだった。
仕事以外のことで、人を褒める人じゃない。
どうしちゃったの、遼……。
昨夜の私の様子がおかしかったから?
腫れた瞼に気づいたから?
夫婦の些細な喧嘩。
些細なことだと流してしまえば。
気づかないふりをして目を閉じてしまえば。
これが「平穏」なのだと思えるのだろう。
これくらいは仕方がないと妥協して、いつもの平凡な朝は繰り返し訪れるのだろう。
――そう。
何事もなかったように、「同棲」は続けられる。
「……私たちが異常なの?
それとも、遅かれ早かれ夫婦は、いつかこうなるものなの?」
それって……
【愛着】
一瞬、その言葉が頭に浮かんだ。
「……愛情と愛着の違いは何なの?」
私は彼の体温が残る椅子へ腰を下ろし、とりとめのないため息をついた。
コメント
1件
楓ちゃんの「覚えてない」って言葉、オペ室のことをなかったことにしたいだけにしか思えなくてゾッとしました。急に優しくなった夫も、逆に裏がありそうで不気味で……。「愛情と愛着の違い」の問いがすごく重く刺さります。平穏を取るか真実を取るか、続きが気になりすぎます!