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翌日の午後、朝風通りには焼き立ての匂いが流れていた。花屋の配達を終えたハヤが焼き菓子店へ寄ると、店先ではアンネロスが大きな天板を冷ましながら、注文票を鉛筆で叩いていた。
「ちょうどよかった。味見しなさい」
差し出されたのは、まだ少しぬくい薄焼きの菓子だった。噛むと、焦がしバターの香りがやわらかく広がる。
「おいしいです」
「でしょう。でも顔がまずい」
アンネロスは遠慮なく言った。
ハヤは口の中の甘さを飲み込めず、曖昧に笑う。
店の隅には、白群リゾートの資料が置いてあった。配達の帰りに役場で渡されたものだ。店名も制服も残す、安心の運営、安定した仕入れ。整った文句が並んでいる。
アンネロスはその紙をちらりと見て、鼻で笑った。
「“残す”って言葉、便利よね。人の手から取っておいて、見た目だけ戻せば残したことになるんだから」
ハヤは反射的にかばう言葉を探した。
「でも、もし入れば、資金は安定します。仕入れも、値付けも、失敗しにくいし」
「失敗しにくい代わりに、誰の店か分からなくなる」
「……」
「楽と安心は別物よ」
焦がし砂糖みたいに、言葉が静かに熱い。
アンネロスは新しい名札の紙を机へ広げながら続けた。
「楽なほうへ行きたい気持ちは分かる。私だって、毎朝三時に起きなくて済むなら、そのほうが体は楽よ。でもね、楽だから続く店と、応援されるから続く店は、匂いが違う」
窓の外を、自転車のベルが一度鳴って過ぎた。ハヤは手の中の菓子を見つめる。形は揃っているのに、端が一枚ずつ少し違う。人の手で作ったものの顔だった。
「私は」
ハヤはゆっくり言う。
「応援される側になるのが、あまり得意じゃないんです」
アンネロスは天板から一枚取り上げ、ぽんと紙袋へ入れた。
「知ってる。だから言ってる」
それだけで逃げ道がなくなる。
「前に出る人って、立派な人だけだと思ってるでしょう」
「少し」
「違うわ。前に出るのは、怖いままでも立ってる人よ」
ハヤの喉が詰まった。店を守りたい気持ちはある。けれど、守るために自分の名前まで出すのが怖い。その怖さを、言い当てられた気がした。
アンネロスは焼き菓子を詰めた袋をハヤへ押しやる。
「持っていきなさい。食べながら考えればいい」
「代金は」
「説教代を取るわけないでしょう」
少し笑わせてから、彼女はまっすぐ見た。
「応援される側になるのを怖がるな。応援ってね、背負うことじゃないの。受け取ることよ」
帰り道、ハヤは坂の途中で袋を開けた。まだほんのりあたたかい菓子が一枚入っている。噛むと、さっきより甘さが深く感じられた。
受け取ること。
その言葉は、名札をつけることにも似ていた。
自分の名前を差し出すのは、立派になるためではなく、誰かが呼びかけてくれたときに、受け取れるようにするためなのかもしれない。
花屋の前まで戻ったとき、引き戸のガラスに映った自分の顔は、来たときより逃げていなかった。