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その週末、朝風通りには見慣れない靴が増えた。石畳の坂を上がってくる歩幅が、町の人より少し慎重で、看板を一枚ずつ確かめるように進んでくる。
地方紙の記事を読んで来た客だった。
花屋の前に立ったのは、四十代くらいの女性と、高校生ぐらいの娘の二人連れだった。旅行鞄を持ってはいない。町そのものを見に来たというより、記事の中の何かを確かめに来た顔をしている。
「ここが、“嘘みたいな本当の話”の入口ですか」
女性が少し笑って言う。
ハヤは一瞬だけ詰まったが、すぐに頷いた。
「花屋ですけど、入口でもあります」
口にしてから、自分で驚いた。前なら、そんな言い方はしなかった。
娘のほうが店先の一輪包みを見つめている。淡い青のリンドウ、白い小花、緑の実物が細く結ばれていた。
「これ、何の花ですか」
「リンドウです。山の空気に合う花で、秋の入口に似合います」
説明すると、娘はほっとしたように笑った。
「記事に、“花の説明が上手な人がいる”ってあったので、会ってみたくて」
「記事、そんなふうに書いてありました?」
「はい。名前は載ってなかったけど」
名前は載っていない。
その一言に、胸が揺れた。
そこへノイシュタットが、外の呼び込みから戻ってきた。
「ようこそ、霧守町へ。観光パンフレットより役に立つ話を取り揃えております」
「まず盛るのやめてください」
ハヤが小声で言うと、女性が吹き出した。
二人は花を買ったあと、保管庫前の小さな案内板を見に行き、アンネロスの店で焼き菓子を買い、神社の石段の途中で長く立ち止まっていた。町の中を、記事の文字をなぞるように歩いていく。
午後になると、別の客も来た。県境の町から車で来た夫婦、写真を撮る青年、母親への土産を探す会社員。数は多すぎない。けれど、明らかに町の外から来たと分かる人が、午前だけで七組いた。
オブラスは帳場で静かに言う。
「単発の客でも、十分に大きい」
「まだ偶然かもしれません」
ハヤが答える。
「偶然が三回続いたら、もう偶然ではない」
そのころ、店の向かい側では白群リゾートの担当者が車から降りて、通りの様子を見ていた。整ったスーツのまま、石畳の坂を少し歩き、花屋の前で足を止める。店先の人だかりを見ている顔は、笑っていない。
ノイシュタットがそれに気づき、わざとらしく低い声で言った。
「見学の方かな。いい席は有料です」
「やめてください」
「君が止めるから、ぎりぎりで済んでいる」
白群の担当者は結局、中へ入らずに引き返した。車のドアが閉まる硬い音だけが残る。
夕方、最初に来た母娘がまた花屋へ戻ってきた。
「帰る前に、もう一つ買ってもいいですか」
女性が言う。
「今日のこと、家に帰って話したくなる花がほしくて」
ハヤは、白と薄紫を混ぜた小さな束を作った。娘はそれを受け取りながら、店先の名札を見た。
「次に来るとき、名前も知りたいです」
その言葉に、ハヤはうまく返せなかった。
ただ、ありがとうございました、と言う声だけは、前よりもはっきり出た。
客が去ったあと、通りには秋の風がいくぶん早くなっていた。
町の外から来た人が、花と話を持ち帰っていく。
それは売上だけではなく、町の輪郭そのものが外へ届き始めたということだった。
白群が黙って見ているはずがない。そう思うと怖い。けれど同時に、逃げたくない気持ちも前よりはっきりしていた。
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