テラーノベル
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潮見駅を出て十分も歩かないうちに、空が暗くなった。
「降るな」
里樹が空を見上げた直後、頬に大粒の雨が当たった。
「言ったそばから」
「走る?」
「どこへ?」
「とりあえず屋根」
二人は笑いながら商店街へ駆け込んだ。
といっても、シャッターの下りた店が多い。営業しているのは食堂と薬局、それに小さな雑貨店くらいだった。
雨脚は急に強くなった。
「これ、しばらく無理だな」
里樹がカメラを上着の中へ隠す。
友香は軒下から辺りを見回した。
「向こう、明かりついてる」
古い木造の建物の一階に、小さな看板が出ている。
『CHIE DESIGN』
「デザイン事務所?」
「濡れるよりいい。入ってみよう」
「勝手に?」
「営業中って書いてある」
里樹はためらいなくドアを開けた。
「こんにちはー」
「ちょっと、そういうところ昔から変わらないね」
「褒め言葉?」
「違う」
中には、紙の匂いとコーヒーの香りが混じっていた。
壁には沿線の地図や観光パンフレット、店のロゴ案らしき紙が貼られている。
奥から女性が顔を出した。
「雨宿りですか?」
「あ、すみません。急に降ってきて」
友香が頭を下げると、女性は気にした様子もなく笑った。
「どうぞ。そこ、タオルあります」
「ありがとうございます」
「私、千恵実です。ここでデザインの仕事してます」
自己紹介をしながら、千恵実は机の上の紙束を脇へ寄せた。
年齢は友香と大きく変わらないように見える。
落ち着いた声だった。
里樹は濡れたカメラを拭きながら、壁の地図を見た。
「これ、星見線?」
「そう。駅から歩ける店とか宿とか、まとめ直してるんです」
「観光マップ?」
「観光だけじゃないです。病院も、学校も、バス停も。住んでる人と来る人、両方が使えるものにしたくて」
友香は思わず黒いノートへ目を落とした。
病院。
学校。
店。
同じ言葉が並んでいる。
「どうしました?」
「あの……これ、見てもらってもいいですか?」
友香はノートを開いた。
千恵実の表情が変わった。
「これ、どこで?」
「借り物です」
「誰から?」
友香は一瞬迷った。
「婚約者の家にあったものです」
千恵実はページをめくった。
星印のところで手が止まる。
「やっぱり」
「何か知ってるんですか?」
「似た印を見たことがあります」
千恵実は棚から古いファイルを取り出した。
表紙には『星見線沿線生活圏調査』とある。
開く。
黄ばんだ地図の上に、小さな星印がいくつも書かれていた。
「同じ……」
友香が息を呑む。
「これ、昔の駅員さんたちが作った聞き取り資料らしいです。正式な会社資料じゃなくて、現場で残したものみたい」
「駅員さんたち?」
「買い物に困ってるとか、病院へ行くのに何時の列車が必要とか。そういう話を聞いて、印をつけてたって」
友香は潮見駅の案内板を思い出した。
『この駅の声を残す』
あれは、本当に住民の声を残すための印だったのだ。
「じゃあ、このノートも……」
「たぶん同じ流れのものだと思います」
千恵実は慎重に答えた。
「でも、これだけ詳しい記録は初めて見ました」
里樹がファイルを覗き込む。
「今の地図と比べたら面白そう」
「面白いだけじゃないんです」
千恵実はきっぱり言った。
「昔必要だった場所と、今必要な場所が変わってる。観光客向けの駅だけ残しても、生活には使えない。逆に生活だけ考えても、利用者は増えない」
「両方必要?」
「そうです」
その言い方に迷いがなかった。
友香は少しだけ千恵実を好きになった。
誰か一方に合わせて話している感じがしない。
必要なものを、そのまま見ようとしている。
「私、星見線のこと調べてるんです」
友香が言う。
「婚約者が、急にここへ来て。理由をちゃんと話してくれなくて」
「鉄道会社の人?」
「はい」
「名前、聞いても?」
「想一郎です」
千恵実の目が止まった。
「……想一郎さん?」
「知ってるんですか?」
「会ったことはないです。でも」
千恵実は机の引き出しから、別の薄い冊子を取り出した。
さっきまでの古い資料とは違う。
印刷されたばかりの、新しい企画書だった。
『星見線沿線利用実態・再構成案』
友香は表紙をめくる。
ページの下。
担当者欄。
そこに、はっきり名前があった。
『想一郎』
胸の奥がざわつく。
「これ、いつの資料ですか?」
「先月です」
「先月……」
想一郎は何も言っていなかった。
結婚式場の話も、新居の家具の話もしていた。
その裏で、ずっと星見線に関わっていた。
「この資料、何のためのものですか?」
千恵実はすぐには答えなかった。
窓の外では、まだ雨が強く降っている。
「私は沿線側の制作協力で入っただけなので、全部は知りません」
「分かる範囲でいいです」
「星見線の今後を決めるための資料です」
友香の指先が冷たくなる。
「今後って……」
「廃線も含めて」
里樹が黙った。
友香は企画書の想一郎の名前を見つめた。
「想一郎が、廃線を進めてるってことですか?」
「そこまでは分かりません」
千恵実は首を振る。
「ただ、想一郎さんが中心に関わってるのは確かです」
外で雷が鳴った。
友香のスマートフォンは、まだ鳴らない。
既読もつかない。
それなのに、知らなかった想一郎の仕事だけが、目の前に積み上がっていく。
友香は企画書を閉じた。
「次に、想一郎の名前が出る場所を教えてください」
千恵実は友香を見た。
「本当に調べるんですね」
「はい」
「婚約者なのに?」
「婚約者だからです」
友香は迷わず答えた。
「信じたいなら、知らないまま信じるんじゃなくて、ちゃんと知りたい」
千恵実は少しだけ笑った。
「それなら、明日の住民集会に行った方がいいです」
「住民集会?」
「星見線の存続を訴えてる人たちが集まります。たぶん、想一郎さんの名前も出ます」
「誰が中心なんですか?」
「勝人さん」
千恵実の表情が、わずかに険しくなった。
「かなり強い人です。鉄道会社を敵だと思ってる」
友香は黒いノートを鞄へ戻した。
想一郎が本当に何をしているのか。
明日、もう一歩近づける。
雨はまだ止まなかった。
けれど友香には、ここへ飛び込んだことがただの雨宿りには思えなかった。
知らない町で、知らない人と出会い、知らなかった想一郎の名前へたどり着いた。
幸せな偶然と呼ぶには、少し胸が痛い。
それでも、この偶然を無駄にはしたくなかった。
コメント
1件
空乃美晴さん、第3話読ませていただきました。 雨宿りという偶然から、千恵美さんという新しい人が出てきて、そこに想一郎さんの名前が出てくるのがすごく自然で、胸がざわつきました。特に友香が「信じたいなら、知らないまま信じるんじゃなくて、ちゃんと知りたい」と言ったところが、とても好きです。彼女の強さがにじんでいて。 廃線の話が出てきて、これからどうなるんだろうとドキドキしています。続きが気になります🌷
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紫倉 紫
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パン
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