工房の外にいたのは、真子の大学の同期の深谷智彦だった。
深谷は今日仕事で岩見沢市内を通ったので、真子と美桜がいる工房へ立ち寄ってみた。
しかし工房に到着してみると、真子が知らない男と抱き合っている。
(あの男は誰だ?)
深谷は真子に好意を寄せていたので、かなりの衝撃を受けていた。
そして深谷は突然踵を返すと、今歩いて来た道を戻り始めた。
深谷が住宅街の交差点に差し掛かった時、誰かが深谷の名前を呼んだ。
「深谷君?」
深谷が振り返ると、そこには美桜がいた。
美桜はあれからだいぶ元気になっていた。
真子が家まで来て話を聞いてくれたので、少し心が軽くなっていた。
まだ目は赤く腫れていたが、家にいても悶々とするだけなので工房で作業をしようと思っていた。
そこでばったり深谷に出くわした。
「浅沼さん!」
「また仕事でこっちに来たの?」
「うん…」
「真子に会った? 工房に行ったんでしょう?」
「え? あ、うん……」
「会わなかったの?」
「いや……なんかお客さんがいたから声はかけなかった」
「お客さん?」
「うん…なんか男の人」
そこで美桜はピンとくる。
「ああ、真子の彼氏ね」
「かっ、彼氏?」
「そうよ。あれ? 深谷君知らなかったっけ?」
「う、うん…聞いてない…かな?」
そこで美桜は腕時計を見る。
「深谷君ちょっと時間ある? カフェで少し話そうか」
「え? あ、うん……」
美桜がスタスタと歩き始めたので、深谷は慌てて後をついて行った。
大通りへ出ると、二人は交差点の角にあるカフェに入った。
注文カウンターで美桜が深谷に聞いた。
「私はコーヒー、深谷君は?」
「あ、じゃあ同じで」
「コーヒー二つお願いします」
美桜が財布を出そうとすると、深谷がサッとカードを差し出す。
「払うよ」
「え? いいの? うわぁ、ご馳走様」
美桜はお礼を言った。
美桜は健次とのデートはほとんど割り勘だったので、男性に奢ってもらうのは久しぶりだった。
だから嬉しかった。
コーヒーを受け取った二人は、窓際のテーブル席に向かい合って座った。
そして美桜が言った。
「深谷君って真子の事好きだよね?」
「え?」
「顔に書いてあるからわかるよ」
「あ、いや、えっと、そ、そうなのかな?」
「そうだよ。えー? 自分でわからないのー?」
美桜はケラケラと笑う。
「うん、まあちょっといいなぁとは思ってた」
「思ってた? 過去形?」
「うん。さっき男の人といるのを見て諦める事にしたよ」
「見てって…何を見たの?」
「宮田さん、その男性と抱き合ってたんだ。で、すっごく幸せそうな顔をしていたんだよね。あの顔を見たら諦める決心がついたよ」
深谷はそう言うと、少し寂しそうに笑った。
そんな深谷を美桜はじっと見ている。
「深谷君って、平和主義者なんだ」
「え? ど、どういう意味?」
「大学の時からいつもそうだったじゃん。何か揉め事があれば中に入って収めようとするし、いつもみんなの意見に合わせるし」
「そうかな?」
「そうだよー。でもさ、好きって気持ちをそう簡単に諦められる? 後悔しない? アタックするだけしてみようとか思わないの?」
「ん…思わないかな」
「どうして? 私だったら当たって砕けろーってなるけどな」
「んー、でもそういうのってエゴだよね」
「エゴ? どういう意味?」
「つまり、自己の利益を優先して他者の利益を軽視または無視するって感じかな?」
「んー、そうかなぁ?」
美桜は深谷の言っている意味がよく理解出来ない。
そこで深谷はさらに言った。
「好きとか愛しているっていうのは、本来は相手の幸せを心から願うものだろう? だから僕は宮田さんの幸せを願いつつ身を引くんだよ。自分がスッキリしたいがために告白するなんてまさにエゴだよね。それに宮田さんとは今後も良き友人として付き合っていきたいと思っているからね。だから迂闊な事はしたくないんだ」
その時美桜は頭をガーンと殴られたような気がした。
美桜の性格はどちらかというと当たって砕けろ派だ。砕けるのは辛いが、その辛さを乗り越えればすっきりと前へ進める。
だから深谷が告白しないまま諦めるというのを聞いてなんだか納得がいかなかったのだ。
それだと未練が残ったまま延々と辛さが続くような気がした。そうなると次へ進みたくても進めないだろう。
だから美桜は深谷にあえてアドバイスしたのだ。
しかし深谷はは真実の愛は相手の幸せを願う事だときっぱりと言い切った。
(なんて大人なんだろう……)
美桜は感動すら覚えていた。
そして己の事ばかりを考えている自分の事が恥ずかしくなった。
(私は健次と付き合っている時、相手の幸せを心から願った事があっただろうか?)
そして美桜は自分を振り返る。
「~してくれない」「いつも私ばっかり」「仕事と私とどっちが大事なのよ?」
健次と付き合っている頃の自分の口癖はこんなものばかりだった。
その言葉には、智彦が言っていた『無償の愛』の欠片もなかった。
その事実に愕然とする。
それから美桜はフーッと息を吐くと深谷に言った。
「深谷君すごいね…すごく立派だよ。同じ歳なのに、なんかちょっと自分の事が恥ずかしくなっちゃった」
そして美桜は急に泣き始めた。
なぜか自分が情けなくて泣けてくる。
「え? どうして浅沼さんが泣くんだよ……えっ? えっ?」
深谷はオロオロしながらポケットに手を突っ込むと、ハンカチを出して美桜に渡した。
「ありがとう…なんか自分が情けなくなっちゃった…」
しゃくり上げながら美桜が言う。
「浅沼さんは情けなくなんかないよ…どっちかっていったら情けないのは僕の方だよ」
「ううん…そんな事ない。深谷君はすごく立派だよ……」
美桜はそう言いながら涙をぽろぽろとこぼしている。
美桜は泣きながら、もう健次に執着するのはやめようと思った。
健次が美桜以外の女性を選んだのなら、もう諦めるしかない。
そして今深谷が言ったように相手の幸せを願う事にした。
すぐには難しいかもしれないけれど、いずれ必ず健次の幸せを願おう…そう思った。
美桜はそれからしばらく深谷の前で切ない声を出して泣き続けた。
コメント
1件
深谷君、名前の通り考えが深いわー‼️ "相手の幸せを願って身を引く" 確かに真子ちゃんと拓君の姿を見た後に告白は自分の欲求を満たすエゴかもね。真子ちゃんも辛いし告白した方も報われなかったらキツイ… でもちゃんと気持ちを整理して引けるのは次へのステップにもなる。 うん、うん。深谷節なかなかだわ‼️ 美桜ちゃんも辛いけど深谷節が伝わったみたいだしこれで美桜ちゃんも次に行けるね❣️🥲 ん?この2人良い感じ🙆⁉️