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#海辺の町
離れの中は、春の光が入るたびに、古い木の匂いをふわりと返した。芽生は柱の根元にしゃがみ込み、巻尺を当てて数字を書き留めていく。床はところどころきしみ、窓枠には塩を吹いた跡がうっすら残っていた。
啓介は雑巾を絞りながら、その様子を横目で見ていた。
「そんなに細かく測るんですか」
「壊すにしても残すにしても、まず今の姿を残さないと」
「……壊す前提みたいに聞こえます」
「前提にはしてません。判断の前に、見えるようにしたいだけです」
芽生は振り返らずに答えた。言い方は静かなのに、曖昧に逃がす気配がない。
啓介は口の中だけで「見えれば済むなら苦労しない」とつぶやいた。
「何か言いました?」
「いや、別に」
そこへ美恵が帳面を抱えて現れた。墨のついた指で封筒をひらひら振る。
「役場から。見積もり」
「早いですね」
「早いのよ。壊す話だけは」
美恵が啓介へ封筒を差し出す。中には、離れの取り壊し費用と更地整備の額が、きれいに並んでいた。数字は整っているのに、啓介には、建物そのものが数字の後ろへ押しやられていくみたいで息が詰まった。
芽生がそっと覗き込む。
「補修案は、まだ出てないんですか」
「出しても通るとは限らないって言われてるわ。古い、危ない、使い道が薄い。そう言われると、反論しにくい」
美恵は机に封筒を置き、離れの天井を見上げた。
「でもね。ここ、雨の日に来る子もいたの。昔から」
啓介が顔を上げる。
「子ども?」
「子どもも、大人も。ちょっと座って帰るだけの人も」
芽生は窓辺へ寄り、外の海を見た。港に白い船影がゆっくり動いている。
「使い道が薄い、か……」
啓介は封筒を握りしめた。
「残せるなら、残したいです」
「じゃあ、どうして残すのか、言葉にしないと」
芽生が振り向いた。まっすぐな目だった。
啓介はその言葉に返事ができず、代わりに封筒の端が少し折れるほど強く握った。
そのとき、美恵が廊下の向こうを見て「あ」と言う。
「役場、見積もりだけじゃなかった」
封筒の裏から、もう一枚の紙が滑り落ちる。
そこには、取り壊し予定日までの日数が、容赦なく記されていた。
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